私の夢は「海外に長期にわたって住むこと」だ。

住むといっても単身海外就職が主ではなく、家庭をもってサザエさん一家のように暮らすことなのかもしれない。そのことを5月下旬から2週間、超個人的にアメリカにホームステイに行ってきたことで気が付いた。

特に何か事業を起こしたりはしていないが、私は2週間のアメリカン・ドリームをたぶん、果たしたのだろう。長期というのは私にとっては1年以上のことを指すため、完全に果たしたとは言い切れないが、この経験は海外に住むという夢を持ち、そのことを周囲に言いまくりながら、いままで、そして特に「かがみよかがみ」に投稿を継続してからの1年間、“ダンスのよりどころ”を開拓してきた自分から自分への、ある意味ご褒美だったのかもしれない。

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そう、日本は私にとって“ダンスのよりどころ”のようなものだ。

私は昨年から東京で、演劇活動に少しだけ携わっている。「失敗を演じることで自分の生き方を肯定する」演技の魅力に惹かれたから、もう少し本格的にやってみたいと思ったのだ。

なぜ私は28年間の人生のたくさんの“失敗”を演じて肯定することに、こんなにもこだわるのか。

地方に住んでいたとき、一時期仲良くしてもらった30代後半の女性にある日の夜、仕事帰りに偶然会ったことがあった。

私はそのとき、地方の狭いコミュニティーの人々にハブられていた。私はその年上の友人に当時の状況を言い、「こんな状況ひどいと思います。絶対に許せません」というようなことを言った。その友人は「もう、忘れよう」と言った。

確かにこんなひどい人たちのことは全部きれいさっぱり忘れてしまって、私の夢である海外移住に向けて頭を切り替えればいいんじゃないかと思った。しかし、何か違うと私は思った。ドラえもんにでも頼まない限り、どうしたってこの苦い経験は忘れることはできないからだ。また、テストの振り返りと同じで、コミュニティーの間違いや自分の失敗を振り返らずに海外に行ったって、また同じようなことになりそうだし、ましてや母国語じゃないところでは取り返しのつかないことになりそうだと思うからだ。

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というわけで昨年、広義のアート活動に焦点を当ててかかわると決めて、東京に戻ってきた。いや、伊豆半島から東京に来たというべきか?

私の嫌いな言葉は「暫定」だ。東京に積極的に戻りたかったわけではなかったが、戻ったからには、この状況を暫定的ととらえずに、その場所のいいところを活かして生活していこうと思ったのだ。生まれも育ちも東京だが、そのこととは違う文脈で私はいま、東京に独り住んでいると思いたい。

だから、日本は「ダンスのよりどころ」なのだ。

暫定的としたくはないが、恒久的でもない。つまり、現在のところ私は東京で・日本で積極的に家庭を持ちたくないということだ。「ダンスのよりどころ」で失敗を演じて自分の生き方を肯定した先に、私は誰かと一緒に生きていきたいとは思う。でもそれは日本では果たせる気がしない。地方でも然り。

理由は単純で「再生産」が苦痛だからだ。

いくつになっても失敗の無い人生なんてあり得ないと思う。それなのに、これから先何十年も日本で――見慣れすぎた風景や良い“悪い”思い出や習慣や慣習が複雑に絡まりあっている土地で――再び家庭を持ちそれでもなお、自分や家族の失敗をエンドレスに肯定し続けようとする、そんな素晴らしく健気な心を私は持っていない。テストの間違い直しをしたら、今度は新しい紙に新しい言語で新しい自分の物語を書き始めたいと思う。

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10年後、もしまだ海外移住できずに日本にいたとしても私は、まだ海外に住んでみたいと言っている可能性が高い。私はこの夢を実現させることをあきらめないだろう。

いま、するべきことはひとつ。「ダンスのよりどころ」をより開拓しながら失敗を演じて自分を肯定することだと、いろいろ考えた後に改めて思った。