「もう!いつもスマホばっかり見て」「スマホ見過ぎじゃない?」と、毎日のように我が子に注意する私。
そんな時、親として私もスマホを見ない日を作ろうと試してみることにした。

最初は楽勝だとたかをくくっていた。暇な時、隙間時間にSNSの閲覧をしているだけだと思っていたからだ。

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でもそれは全く違っていた。スマホは私にとって単なる調べものやSNSの閲覧だけでなく、スケジュール管理、支払いや連絡ツール、もちろんカメラや時計といった日常においてかかせない機能が1つに集結した存在になっていた。

子供達の学校行事や自分の約束事や習い事のスケジュール記載はもちろんのこと、私の体と心の状態を知るバロメーターとして体重や体調、生理周期を管理しているアプリ。家計簿まではいかなくとも、毎月の支払状況を把握するアプリなど、家族や自分の生活情報がたくさん管理され、アプリで勝手に集計やグラフ化などされるため、ついついスマホに甘え確認していた私。コンパクトでいつも手元にあるスマホ。あまりに身近過ぎて、当たり前過ぎて、その便利さや重要さに気付いていなかった。だから、「今日はスマホを見ない!」と思っていても、ふとした時にスマホを手にしている私がいた。習慣というのは、客観視するのが難しいと感じた瞬間だった。

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それでも、「今日はスマホを見ない!」と意気込んでみる私。たまには情報をシャットアウトしようと挑んでみる。でも逆に、そう意気込まないとスマホから離れられない現実があることを知った。意識しないと駄目なんだ…と痛感した時、まるで恋みたいと思い、クスっと笑えた。「幼馴染を、友達を、先輩を好きではない!」と否定し「見ない!気にしない!考えない!」と思えば思うほど、逆に意識してしまった若かりし頃を思い出した。
でも、本当にそうなのかもしれない。今や私にとってスマホはなくてはならない存在で、私のことを私以上によく知り、的確に管理してくれる良き相棒だ。

スマホが普及する前の私は、「携帯があれば十分。調べ物はパソコンですればいいし、スマホなんていらない」と思っていた。けれどいざスマホを持ちだすと、その便利さにどっふりつかり、いつしかそれが当たり前の日常に染まってゆく。世の中の流れも、スマホありきのシステムへとドンドン移行し、お店や病院などの予約はもちろん、あらゆる手続きやネット銀行の開設もスマホ内で完結してしまうほどになった。

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私の親世代はスマホは持っているけどその流れについてゆけず、「これやってくれる?このやり方教えて?」と、度々質問をうけた。実際に親にあれこれ説明していると、ふと自分が親世代になった時の不安が頭をよぎる。私が70歳80歳になった時、どんな世の中になっているのだろう?私はその流れにのれているのだろうか?と思えた。

人間とは基本怠け者で、ラクをしたいと願っている。だから便利なものがあれは、そちらの方へとながされ依存してゆく。今は情報だけが溢れ、出生率が減り、機械に頼って共存してゆく世の中に移行している。たまにそんな世の中に嫌気がさし、何もかも放り出し、自由になりたくて、大自然の中に身をおきたくなる。そんな時でさえ、行く先の地図やナビ、天気、時間と、スマホに頼りっぱなしの自分がいる。

便利を一度味わうと、なかなかその甘い味が忘れられない。だからスマホも恋人のように、依存しすぎない関係がベスト。お互いの居心地良い距離感が大切で、真っ向から切り離すのではなく、バランスの良い関係をきずけることがいい関係なのだと感じた。