北大路通りにある、昔からある小さな書店。冬の夕暮れ時、自転車を止め書店の扉を押した。
特に探し物があるわけでもなく、休日一人アパートに戻っても暇を持て余すので、ふらりと立ち寄ったのだった。わたしの目に留まったのは、留学の本。学生時代から憧れはあったが、裕福な家庭でもなく、勉強も得意ではなかったので、無縁な世界だと思っていた。

手に取りページをめくると、心の中にわくわく感が広がり、直観的に、「これだ!今しかない!」と思った。時間とともに、海外への思いは具体化し、気がつけば渡航の準備は進んでいた。

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6月、思い描いた出発の日が来た。選んだ国はオーストラリア。当時はインターネットもなく、情報は書籍や、留学センターに自ら足を運び情報を得る、語学学校への入学願書提出はFAXで送信するという時代だった。

今でも、出発時の関西空港での母のお見送りを鮮明に覚えている。出発ロビーで、「しまった!間違った選択をしてしまった!」と、急にとてつもない恐怖に襲われ半泣きだったわたし。なんとか母に別れを告げ長い海外留学はこうして始まった。

初めて足を踏み入れた土地、オーストラリア、シドニー。6月の中頃で、秋が深まっていた。ホームステイ先では、年齢の近い日本人学生が2名暮らしており、ホストファミリーには息子たちがいて、男性ばかりのステイ先だった。

同じ屋根の下の日本人学生が通う学校のイベントに一緒に参加し遅く帰宅したり、ある寒い冬の夜は、即席みそ汁を3人でマグカップにつぎ、寒々とした広い部屋で3人フロアに座り、夜更かしした日もあった。

当時は、現地において即席みそ汁の入手は困難で、彼らが日本から持参したものだった。この時のみそ汁の味は今でも忘れられない。ホストファミリーになじめないわたしの心を温めた。

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語学学校にも慣れ、友達も増えてきたが、学費を少しでも抑えるために、彼らが通っている学校に転校した。学費は、わたしが社会人でコツコツと貯めた貯金だったので、生活費は節約しなければならない。

半年も立たないうちに、すっかりシドニーの生活に魅了されてしまい、親に学費や生活費を工面してもらう=親の言うことを聞かなければならない、すなわちそれは帰国、という方程式が常に頭にあったので、節約には必死だった。昼間は学校で学び、夜は日本食のレストランでアルバイトするという生活が始まった。

いわゆる貧乏学生だったが、これまでの日本での自分とは違う新しいわたし、自由のど真ん中で、お金がないことも気にならない、今思えば、全て若さで乗り切れたのだった。

語学学校が終わり、カレッジに進んだわたしは、大型免税店でアルバイトをするようになった。

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当時、シドニーの街は日本人観光客であふれ、日本語での接客業は需要が高かったので、多くの日本人留学生が免税店でアルバイトをしていた。
ここでも、沢山の友人ができ、彼らとは現在も交流が続いており、よく当時の昔話に花を咲かせている。

ある日のこと、18時開始のアルバイトに免税店に到着すると、記憶にある制服に身を包んだ女子学生たちが店内を走り回っていた。どうやら日本人らしい。わたしは思わず一人の女子学生に声をかけ、どこから来たのかと尋ねると、なんと、わたしの母校の高校だった。こんな、地球の裏側で母校の学生たちに出会うとは!続けて、引率の先生について尋ねると

その15分後、わたしは高校3年生の時の担任と、免税店の裏通りにある送迎バスの前で、再会した。高校を卒業して約6年振りか、まさかの海外で、恩師に出会えるなんて。
恩師は、「海外で頑張っているわたしを嬉しく思う」とお声をかけてくださり、ただただ胸がいっぱいになった。
長く会話はできなかったが、恩師との再会に心から感謝した。

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月日は流れ、恩師とはそれが最後になり、帰国後、留学を生かし英文事務の仕事に就いた後、現在は、海外で就労し身を立てている。今の自分があるのは、シドニーでの留学経験と言える。

書店で留学の書籍を手に取り、そして出発日関西空港での涙から始まった。4年間という短いシドニーでの留学生活だったが、今でも目を閉じれば、恩師の笑顔が浮かび、いつもわたしに語りかける。