叶わなくても夢を見続ける私は、「愛惜」に支えられて生きていく

これは両親に愛されることが夢だった、私のちょっとしたお話である。
ある出来事があって、私と両親の関係について、もう一度考えてみた。
……私がもっと素敵な人間だったら、両親は私を捨てなかったのだろうか。
ねえ、お父さん、お母さん。どうして私を愛せなくなったの?
ちゃんとした理由なんて聞けなかった。
だから私は今の自分に何回も何百回も何千回も問いただした。
あのときわがままを言ったから? 妹と比べないでって言ったから? 精神を病んでいて失敗作の娘だから?
そんな私に嫌気がさしたの?
私が、私じゃなかったらよかった。
私がもっと違う私だったら、誰からも傷付けられずに、誰からも捨てられることなく、こんなに消えたくなることなんてなかったはずなのに。
私はそんな自分が憎い。憎くてたまらない。
私を捨てた両親が憎いのではない。両親から愛されずに捨てられた私自身が憎いのだ。
どうして私はこんな人間なのだろう。
私なんて消えてしまえばいいのに。
跡形もなく、最初から存在しなかったみたいに。
……などと。
つまり、「両親から愛されたい」という夢は、今の私の状態ならば叶いそうにない。裏技を使って叶えることなら出来るかもしれないけれど、それは本当の私ではない。「理想の娘」を演じ続けていれば、愛をもらえるのかもしれないけれど、そのとき両親が愛しているのは、「贋物の私」だから。私は本当の私を、心から両親に認めて愛されたいのだ。
ならばどうすれば夢が叶うのか。あるいは妥協できるか。
多分、諦めることはできないと思う。ならば他の人から愛されるという妥協案で納得するべきなのか。
でも、できない。できなかった。
今まで愛し愛されてきたひとたちから貰った愛も、配偶者から注がれる愛も、私の欲しい愛ではないのだ。言うなれば「無償の愛」、私が私であるだけでいいと言ってくれるような、そんな愛が欲しい。
もちろんそんな願望は傲慢極まりないと思う。今も恵まれていると思う。
でも、諦めきれないのだ。
諦めたら楽になれる、とは思う。けれど諦めたあとの自分がわからない。ある意味執念のような、仏教用語で言う「愛惜」という煩悩から解き放たれたとき、自分を見失ってしまう気がする。その時がとても怖い。本当に生きる意味を見出せずに死んでしまうのではないかと。
だから私は夢見続ける。叶わないと分かっていても、夢見続ける。
夢とは、言わば私の縁(よすが)である。こんな絶望に満ちた世界で、ギリギリ生き伸びるために、必死で掴んだたった一つの細い糸。
叶わなくていい。愛されなくてもいい。
けれど夢だけは見させて欲しい。それすらもわがままだと言われるのだろうか。そう言われてもいい。無謀な夢でも、私はそれが生きる理由だから、ずっと見ている。諦めない。
ねえみんな。
どんな夢でも、諦めなくていいと私は思うの。
夢見続けていれば、しあわせだから。
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