辛い恋の先を探す前に、「全部の私」を自分で抱きしめる勇気が必要だった

彼氏がいない間に開かれた宗教(男いらん教)を急いで折りたたみ、私は告白されたのを機に、世間一般の何の変哲もない彼女となった。少し前まで先進的な宗教の先駆者だったのに、今はラインの既読がつかないだけで苛苛する女Bである。
ほしい指輪があった。それは結婚指輪とか婚約指輪とかそういった類のものではなく、駅ナカの雑貨屋さんで見かけた3000円くらいのものだ。謎にハートが垂れ下がっており、光が当たると宝石部分がまあるく輝いて、まるでお姫さまがつけるような華奢な指輪であった。
私は可愛くなかった。それは顔の造形がとか体型がとか何か一つを指して言っているのではなく、全体としての「かわいらしさ」という、日本人女性だったら当然のように備えているはずの特性を持ち合わせていないということだ。クールな見た目に反して、リボン!ハート!フリフリ!といった平成女児の権化みたいなものが昔から大好きだった。幼少期のお気に入りは、限られた面積にこれでもかと宝石やハートを散りばめ、極めつけにリボンのチャラチャラを付けた、イタいけな帽子だった。
残念ながらその好みはいまだ変わっていない。小さい頃は何も考えず好きなものを身に着けていた。しかし成長するにつれ、自分と自分の好きなもののミスマッチに気が付き、自然と手に取らなくなっていた。
図々しいことはできない。「これ買って!」と言える女Cにはなれなかった。可愛くおねだりができる人種がいることは理解しているが、どういう思考回路を経て実行に移されているのか、齢20年生きても分からない。彼が好きになった私は女Aであって、つまり落ち着きがあって頼りがいのあるジャケットが似合う女であって決して「これ買って」とねだって本当に買ってもらえるような女Cではない。
買ってもらうことで愛を測るなんてばかばかしいと思っていた。けれど、私もその一端を担っていたようだ。その値段が大きければ大きいほど私にこれだけ掛けられるんだ結婚しようねと舞い上がり、小さければ小さいほど私になんの価値もないのね別れようとなる。以前編纂していた経典(日記)にはそんな極端なことは何も記されておらず、ただ男いらんとだけだった。全くあてにならない。
これだけごちゃごちゃ言っているが、結局のところ、これ買ってと言って断られるのが怖かったのだ。似合わないものが好きなんだな、とか、せこいな、とか思われるのが嫌だった。
今振り返るとそれは、辛い恋だったと言えると同時にそうでもないとも言える。世の彼女が通過する儀式のようなもので、私はそれを乗り越えられなかった。私を構成するすべての部分を出せなかった。AもBもCもすべて自分の要素なのに、それを抑えて常にAでいようとした。そうなれば、我慢が増えるのも当然だ。
私はAからZまでを全部、見せていたらよかったのだろうか。あの頃の私は未熟だったのだろうか。今考えても、よく分からない。
ただ一つ確かなのは、辛い恋の先を探すより前に、「全部の私」を自分で抱きしめる勇気が必要だったということだ。
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