どんなに忙しい時代でも、人間にもスマホにも適切な距離があるはず

もう気づけばバッテリーが20%をきっている。そのことに焦りはじめた私は充電器を素早くさす。
まるで自分の身体のバッテリーがきれたように、必死になっていく。ただ四角い画面をもつスマホに、なぜ私たちは日々振り回されているのだろうか。指と目を酷使する機械といえばスマホ。今やネットにアクセスすれば欲しいものも買え、日常的に必要な情報を即入手できる、とても便利な道具である。いや、道具というか、これを手にしていたら生き抜いていける。時代がスマホを呼んだのか。それともスマホが時代を呼んだのか。
それにしても、スマホに触れる時間が多いほど、知らないうちに精神的に負担がかかっているとの分析もされている。そう言われると、たまにはスマホと断絶した時間も必要だと思う。デジタルデトックスなんていう言葉を時々耳にするが、私はそれに対して納得し、共感したものだ。
こうして、1日だけスマホから離れた生活を実験的に行ってみた。
初めはスマホが手元にないと落ち着かなかったが、時間が経てば経つほどスマホを探す癖がなくなっていくようだった。握りしめる、とまではいかないが、常日頃から右手か左手にスマホを持ち四角い画面と格闘することで生活を成り立たせていたのだなあ、と思い知らされる時間でもあった。これでは、スマホに支配され、侵食された生活を続けることは息苦しいのではないか、とゾッとしてきたのだ。しかしながら、誰かとメールしたり時には電話したり、近所の美容室の営業日を調べたり、映画館の上映スケジュールを調べたりするには、スマホやiPadが必要不可欠だ。やはり、目まぐるしい令和を生きる現代人からスマホを完全に奪うことはできない。
けれど、完全に奪うことはできなくても、少し離れてみることは、いつだって可能だと私は思った。
長年寄り添っている夫婦やカップルだって、たまには離れて自分時間を満喫することも必要である。離れてみて初めて気づく感覚であったり、価値観があるかもしれない。どんなに忙しい時代でも、人間にもスマホにも、いつだって適切な距離があるはず。
便利になった時代だからこそ、適切とは何か、適度とは、そして限度とは何かを考えるきっかけを与えられているのかもしれない。
いつの時代も、今を見つめ直す時間を大事にしたいと私は思う。
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