短冊に夢を書けなくなった。それはきっと私の成長の証

私の背丈を優に越える笹を前にして、私はペンを動かせずにいた。七夕の短冊相手にこんなに悩むようになったのはいつからだろう。ひとしきり考えても思いつかなくて「とにかく健康に…」と書いた。そんな自分をなんだか寂しいなと思った。
勿論私も小さいころは夢があった。テレビアニメの戦士、アイスクリーム屋さん、イラストレーター、保育園の先生、外交官…。その頃自分は頑張ればなんでもできると思っていたし、なんにでもなれると思っていた。現実的かどうかなんて考えもしない。「その存在がかっこよく、可愛く見えたから」ただそれだけの理由で自分の夢になった。
関わる世界が広がるにつれ私も徐々に変わっていった。アイスクリーム屋さんも、イラストレーターも保育園の先生も、外交官もただただ「かっこいい!かわいい!」の感情だけじゃ到底なれない。気持ち以外にも、そこには求められる能力や資質があって、世の中を見れば上には上がいる。私より絵が上手な子、外国語が堪能な子、成績がいい子、自分以外の様々な人と関わることで、少しずつ大人になった。言い換えてみると、自分のやりたいことだけに固執するだけじゃなく、それに対して現実のフィルターと重ね合わせて、その妥協点を調整することができるようになった。
このエッセイを書きつつ、夢について考える中で、もしかすると夢に対する捉え方が昔と変わっただけで、今の私にも夢はあるのかもしれないと思った。「あの場所にいつか旅行に行きたい」「部活の大会で勝ちたい」「勉強している英語をもっと話せるようになりたい」とかいくつかある。どれもこれも夢想に耽っているわけではなくて、私のやり方次第で実現できるものだ。
つまり、自分の希望と現実との妥協点がわりとしっかりある「目標」に近いのかもしれない。そして「旅行したいな~」「あの大会で勝ちたい」と考えることは、小さなエネルギー源になる。単調な毎日を生きていると視界が狭まって時々息が詰まりそうになる。そんな中で、明確ではなくとも「いつか」に目を向けることで、「そこまでなんとか頑張るか」と日々をつなぎとめる命綱になる。そして、今の私の目標はどれも意図的に生み出したものではない。生きていく中でぼんやりと浮かんできた。そう思うと、夢を見るということは人間の生きる本能に近いのかもしれない。
今の私には夢がないんじゃない。夢に対する視点が変わっただけだ。そしてその夢は形を変えながらも、ずっとこれからも私という人間の背後にいる。夢とのかかわり方は大人への一つのピースなのかもしれない。短冊に夢を書けなくなったのも、寂しいことなんかじゃなくて、私という人間が変化して成長していった証だ。これからの私は夢をどんなふうに捉えるのだろう。
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