「彼氏(女)」という言葉が嫌いだった。「彼氏(女)」の前には「誰かの」(所有格/生格)が入る。「わたしの彼氏」というと、相手をモノみたいに扱っている感じがして嫌だったのだ。だから、私はだれかにその人のことを言及するときは、「すきぴ」「付き合っている人」「わたしのいちばん好きな人」という。

◎          ◎

3つ年下のその人とは、昨年のサマーインターンではじめて会った。インターンを私にすすめてくれたのは直前に私が振った前の彼である。その意味では前の彼に感謝している。

さて、インターンは結論から言うと、非常に有意義だった。それまで文化欄と新聞小説くらいしか読まなかったから、受け入れが決まると、まずインターン先の新聞の購読を始めた。突貫工事であわてて過去1年分の時事ネタをかき集め、新聞社志望に見える就活生に擬態した。もっとも、このメッキはすべて面接で剝がれることになるのだが。

その人はインターン先でひときわ優秀だった。当然だ。ローカルTVに取材されるくらいのガクチカをすでに積み上げていたし、学生新聞にも携わっていたとか。まったく臆さず人と渡り合えるのだ。

当時はその人に恋愛感情は全くなかった。ひたすら尊敬の思いしかなかった。ただ、人なつこく誰にも話しかけてくれるその人に親近感を持った。なにより、その人が私の研究分野に興味を持ってくれたこともうれしかった。

その人とは、それから幾度か映画を見たり、イベントに行ったりした。そのときもまだ、「なんか懐かれているなあ。悪い気はしないなあ」くらいの感情だった。佳境に入った就活で忙しくも、充実した日々だった。

◎          ◎

転機は昨年の12月。冬休み、クリスマスマーケットに行かないかという誘いが向こうからあったときだ。多少の好意はあったとはいえ、面食らった。いつも通り映画やその他お互いの興味にあったイベントではなく、純粋なクリスマスマーケットだ。「え、そういう関係?」と思いながらもついていったら、やはり告られた。そのとき一瞬、落胆した。なぜ、私なんかを選ぶのだろう。この人は、壊滅的に人を見る目がないのだと。ひどい罪悪感を覚えた。
今振り返ると、このときすでに鬱っぽくなっていたのかもしれない。ここまで自己を否定することもないのに。人の好意を素直に受け取ればよいのに。

今年に入って、その人はロシア留学を目指して、ロシア語の勉強を本格的にはじめていて、ますます生き生きしていた。私はといえば、就活で祈られすぎてボロボロになっていた。今思えば、もっと受けろよという話なのだが、大手新聞紙を狙っていた。昨年かなり勉強したので、筆記試験までは問題なく通過した。

しかし、記者志望にあるまじき話なのだが、どうにも話すことが本当に苦手すぎて、面接で詰んでしまった。3月くらいから連日続く面接のストレスで、過食嘔吐やリスカに走った。私はそんな姿を見せたくないと思った。「そんな(私の名前)を見たくない」と言われたから。彼の私に対するイメージを裏切りたくなかった。

◎          ◎

そんな私は、夏休みぎりぎりに就活を終えた。そしてその数日後、その人は日本を発った。

いざ彼が行ってしまうと、なぜか気持ちが楽になった。私はその人にあまり好き好き言えなかった、いや言わなかった。メンヘラの愛情表現ほど疎まれるものはないからだ。

彼のことが好きなのか、そうではないのか、彼の留学はもう一度そのことを考える良い機会になりそうだ。