スマホ断ち。それはデジタル社会を生きる私たちの新しい「休み方」

そんなお題を見たのは、8月の蒸し暑い日のことだった。最初に浮かんだのは、「これはチャンス」という言葉だ。当時の私はちょうど試験勉強の真っ最中で、スマホの誘惑は常に集中を妨げる存在だった。ならばいっそ、完全に距離を置いてみよう。そう思い立った。
挑戦は、翌日一日家にいられる日の夜21時から始まった。翌日の流れはすでに決めていた。朝は6時に起きて朝食をとり、午前中は勉強。昼食をはさんで午後も勉強。おやつや読書で一息つき、夕食後も21時まで机に向かう。そしてその後ようやくスマホを解禁する。そんな完璧な計画だった。
最初の数時間は順調だった。朝食を済ませ、机に向かうと、スマホを見ない分、集中できている気がした。昼食を食べ、午後もシャープペンシルを握り続ける。ところが30分ほど経った頃、突然強烈な眠気に襲われた。何度読んでも内容が頭に入らない。仕方なくベッドに潜り込み、仮眠をとった。
目覚めたとき、時計の針は一時間以上先を指していた。体は重く、まだ眠気が残っていた。勉強を再開しても効率は上がらないだろうと悟り、そのまま布団の中でくつろぐことにした。スマホを手にしない午後は、驚くほど静かだ。視界や手元が少し物足りないが、布団のぬくもりがそれを補ってくれる。夏なのに布団に包まれている自分が、なんだか雲の上にいるようで、不思議と安らいだ。
予定していた勉強量はこなせなかった。それでも、夜21時を迎えたとき、私は妙な達成感を抱いていた。スマホというストレッサーから解放され、ただ「休む」ことができたからだ。人から見ればだらだらしていただけなのに、心の奥には充足感が残っていた。スマホを使わないだけで、こんなにも感覚が変わるのかと驚いた。
振り返れば、休憩中や余暇にスマホを触っているとき、私は本当に休めていなかったのだろう。動画を流し見し、SNSを眺め、ニュースやブログを見漁る。それらは「暇つぶし」にはなるが、頭と心を休める時間ではなかった。むしろ次々と情報が流れ込むことで、休んだつもりで疲労を積み重ねていた。その後スクリーンタイムを見て後悔し、それがまたストレスとなった。
子どものころを思い出す。スマホなどない時代でも、毎日は退屈しなかった。本を読んだり、絵を描いたり、友達と話したり。アナログな遊びや日々の中で、心は十分に満たされていた。ところがスマホを手にしてからは状況が一変した。調べ物をしたあと、そのままアプリで友人とやり取りをしたが、気づいたときには動画サイトに移動し、ネットサーフィンを続けている。スクリーンタイムの数字は増える一方だった。やめたいと思っても手が伸びる。その状態は、診断がつかなくても依存の一歩手前だと感じる。
近年「スマホ依存症」「テクノストレス」といった言葉が注目されるのも当然だろう。テクノロジーは便利である反面、私たちの心を目に見えない形で蝕んでいく。その一方で、便利さに慣れすぎた私たちは、それに気づきにくい。だからこそ、意識的に距離を置くことが必要なのだ。
今回の24時間の実験は、極端な挑戦だったかもしれない。しかし、スマホを断つことで「休むことの力」とその大きさを知れたことはとても大きかった。真の意味で「休む」こととは、ただ座ったり、体を横たえたりすることではなく、情報の奔流から一歩退くことだったのだ。たとえ一日でも、いや数時間でも、スマホを手放す時間を意識的に作る。その小さな決断が、デジタル社会を生きる私たちにとっての新しい「休み方」になるのだろう。
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