頑張った自分ばかり認めてしまう私。本当はそこにいるだけで尊いのに
私は自尊心を他者評価に依存していた。自分の気持ちを優先するよりも、他人に尽くすのが私の当然だった。
そうなった根本的な理由は、幼少期からの親との関わり方だ。親の機嫌を損ねないことが長らく私の生存戦略だったから。
小学校のテストで100点を取ること。自分が一番早く帰ってきたら、お夕飯を作ってお風呂を沸かしておくこと。おとうさんが怒ったら大人しく退くこと。おかあさんが何か要求したら、自分の気持ちよりもおかあさんを満たすのを優先すること。それが私が平穏に生きていくために必要なことだった。
社会に出てからも私の悪癖は続いた。
他人の顔色を窺って、自分のキャパを越えた仕事を請け負った。要求される働き方に、他人から押し付けられる責任に、NOと言えなかった。上司や先輩、同僚に「助かったよ」「ありがとう」と言われるのが生きがいだった。無理してでも仕事を捌き切った時の達成感が、自分が仕事好きな証拠だと思っていた。
辛くなかったわけじゃない。でもどこの会社に行っても似たようなものだと思って、思いこんで、毎日必死に踏ん張っていた。
そして体調を崩して初めて、私は漸く、自分の生き方がよくなかったのだと認めざるを得なくなった。
他人からの評価で自尊心が満たされると感じるのは、よくないことだ。なぜなら他人のために自分の限界を超え続けて、自分を壊してしまうから。
大人になったら自分を守れるのは自分だけだ。自分で自分を大事にして、限界を見極めて、うまくバランスを取っていかないといけない。守ってくれる「保護者」はどこにも居ないのだ。だから自分の限界を見極めて、自分を守るような働き方をしなくちゃいけない。
けれど私にはそれができていなかった。今やっと自分で自分を認めること、大事にすることを、すこしずつ覚え始めている。
私は長らく他人を満足させることで自分の価値を測ってきてきてしまっていたから、すごくこの感覚を変えるのは難しい。
これは私の仕事じゃありません。
これ以上の仕事量は厳しいので他の人に振ってください。
それをされると私は悲しいからやめてほしいよ。
自分を守る言葉をはっきり伝えるのに、本当は何を躊躇することがあるだろう。けれど今の私はどう言うか延々と考え直し、緊張と不安で寝不足になる夜を何度も越えて、やっと口にできる有様だ。こういう自分を変えていく、気の遠くなるような孤独な戦いに、私は懸命に挑んでいる。
自尊心が低いのは私のコンプレックスだ。どうして自分が家族とも、会社の同僚とも、恋人ともなかなか長続きする良い関係を作れないのか、ずっと悩み苦しんできた。
でも自分を大事にすることが、私のしあわせの第一歩なんだと気づくことができた。他人の要求に負けてしまった時、いま私自分のこと大事にできてなかったな、と気づけるようになってきたから、一歩目は踏み出せているんだと信じたい。
最近の私に特に言い聞かせているのは「完璧じゃない私をもっと認めてあげよう」ということだ。
完璧にやらなきゃ愛されない、褒められない、っていう、長年培ってきてしまった思い込みが私の中に根強く存在している。でも完璧じゃなくたって、息をしてそこに存在しているだけで、実は私は尊いし偉いんだ。泣けた、考えられた、それだけで本当は認めてあげていいのだ。
正直まだあんまり、そうだって信じられない。頑張った自分ばかり認めてしまう。でも毎日なんとか、息をしている自分を褒めて、それだけで立派なんだよって自分に刷り込んでいる。
こうやって今人一倍苦しんで、苦労しているから、私はちゃんと人の弱いところを認めて、受け止めてあげられるようになってきているはずだ。
自尊心が低かったからこそ、他者のことも認めて受け入れて、一緒に進んでいける。そういう人間に、私はこれからなっていきたい。

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