90分のスマホなしチャレンジで見えた、完璧じゃない子育てのカタチ

モンパルナス駅を出る前に、私は決めていた。ボルドーに着くまで、スマホには触れない。開いた瞬間、仕事の通知や役所の書類の催促が光り、せっかくの休暇が「別の労働」に変わるから。
電車で予約された席に向かうと、隣には四人家族が座っていた。母親はきっぱりした声で娘たちにフランス語のドリルをやらせている。「うわ、この家族の横かよ」と私は思った。嫌な予感しかしない。
電車が走り始めても、小さな鉛筆の音は絶え間なく響いた。音が止まり、横を見ると、娘たちは昼寝をしていた。それを夫婦が満足そうに見ながら、静かに会話を楽しんでいる。絵に描いたような、幸せな家族って感じだ。
私は窓の外を眺めながら、どんどん憂鬱になっていった。うちの子どもたちはドリルなんて持ってきていない。家でもほとんどやらせていない。
「ねえ、スマホかして」と長男が言った。私は「横の子もやってないんだから、やめとこう」と言って、次女を連れてトイレへ立った。
戻ってくると案の定、長男と長女は動画に夢中になっていた……。
横の子どもたちはお目覚めの様子で、今度は英語の勉強を始めている。私は小さく息を吐いた。すると「これね、お兄ちゃんが作ったゲームなの」と長女が画面を見せてきた。
「何これ?あほくさ」
100万回ボタンを押し続けると卵が割れる、ただそれだけのゲームだ。くだらなすぎて、笑ってしまった。無意味さが突き抜けると、逆に面白くなる。こんな無駄から新しい遊びが生まれるのかもしれない。けれど大抵は、ただ課金して、消費して終わるだけだろう……。
隣の夫婦はずっと楽しそうに話している。機嫌の良さが乗じて、男性は周りの人におやつを配り始めた(私たち家族には配らなかったけど)。このように周囲を巻き込んで、素晴らしい人生を送っているのだろう。
一方で私は三人を連れて、ワンオペで旅をしている。今回、夫は仕事だけど、一緒にいたとしてもスマホばかり見ているだろう。
何か諸悪の根源なのか。青白い光が子どもたちの顔を照らしている様子を見て、私は気づいた。
「そうだ、スマホだ」と。
そこで、ボルドーに着いて、子どもたちのデバイスを没収してみた。
公園に直行して、子どもたちを放った。やっと、電車で見かけた「素敵な家族」に近づけた。そんな気がした。
でも、すぐに長男はリュックから持ってきたレゴブロックを取り出し、芝生に並べ始めた。長女は滑り台のはしごで、逆立ちを繰り返している。次女はYouTubeで覚えたダンスを、ひたすら踊り続けている……。フランスの子どもたちが「公園らしい遊び」をする中で、うちの三人はまるで別の星に住んでいるみたいだった。
「あぁ、そうかーー」と、私は思った。完璧な環境を与えたからといって、子どもがまっすぐ育つわけじゃない。だって、公園に連れてきているのに、こんなに変なことをしているのだから。ドリルを与えても、英語をやらせても、あの娘たちのように、素直で大人しい子に育つとは限らない。
ベンチに座る私に、長男がたびたび話しかけてきた。いつも公園ではベンチでスマホをいじりだすのだが、今日は封じているからだろう。
はじめは会話を楽しんでいたけれど、正直言って、途中から苦痛になってきた。考えを遮られ続けて「あと少し思考の奥に入っていけば、いいアイディアが浮かびそうなのに」という時が多かったからだ。
そう。沈黙や空白、そして独りの時間があるからこそ、私はこうして言葉に向き合える。もしすべてを語り合える家族だったら、私は書くことをやめていたかもしれない。
24時間スマホなしチャレンジ──結局は90分のスマホなし。やっぱり、スマホは不可欠だと思った。長男がくだらないゲームを作るためにも、次女が踊る曲を仕入れるためにも。そして、私がものを書くために、子どもたちの注意を別の場所へ向けさせてくれるためにも。
でも、まあそれでいいんだと思う。完璧なやり方なんて最初から存在しないし、不格好でも、そのとき夢中になれるものがあれば十分だ。
公園で逆立ちをしていた長女の笑い声や、レゴを並べた長男の真剣な顔を思い出すと、スマホの光よりも、まだそっちの方が強く残っている気がする。
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