コンプレックスは天使であり悪魔。時間をかけて武器にすればいい

私はコンプレックスのデパートと言ってもいいほどに、あらゆることに対してのコンプレックスが強かった。
街を歩いて同年代の人を見れば、男女問わず「羨ましいな」とか「何も悩みなんてないんだろうな」とひねくれたことを思った。
特に同年代に対しての嫉妬心の炎は、微かだがいまだ燃えている。大体の人は就職して、その傍ら趣味で絵や文章、写真、陶芸などを嗜んでいる人が多い。
私は社会的な面で様々な困難があり、文芸に縋らざるを得なかった。
別に吟遊詩人のように各地を巡っているわけでもないから、世間の視点ではただの道楽者に見えるだろう。
その唯一の蜘蛛の糸である文芸も、さりとて才能があるわけでもなく、先日コロナに感染してからは発想の枯渇に拍車がかかったようだ。
このところ、欲が出てきたことを自覚していた。早く評価されたいとか、自分の表現を分かってほしいという独りよがりな思いが先走っていた感がある。それを上から見ていたお釈迦様に、コロナをきっかけにしてプツッと糸を切られてしまったのかもしれない。
心の翳りを全て趣味にぶつけようとして、かえって卑屈になることもあった。
基本的に社会という枠には不適合だが、言語化は並程度にできるという自分の特性を、ほんの一瞬だけ買い被っていた時期もある。しかし、本当の意味でアドバンテージにするにはまだまだ時間がかかりそうだ。
人様と日の光のもとで肩を並べられるのは、きっと何十年か後のことだ。その頃には多少、今よりも人間的に成長していることだろう。
さて、ぼやきが続いてしまった。今回私が伝えたいのは、コンプレックスや欠点がない人など世界のどこにも存在しないということだ。
私が「羨ましい」と喉から手が出るほど妬んでいる他人だって、きっと何かしらの悩みや凹凸はある。
美女や大金持ちでも、やはり何かしらの不安はあるだろう。それに、既に持っている者の方が失うということを常に気にかけている。
例えば美を手にしていればいつか衰えることに対しての抵抗はあるし、大金持ちも投資で更に資産を増やしたいとか、その行方に多少頭を悩ませるはずだ。
だから、そう思えばみんな同じなのである。人生に悩みは尽きないものだ。社会情勢にしろ流行にしろ、すぐに変わる。
たまに口では「悩みなんてないよ」と言う人があるが、それはその人の処世術に過ぎないと思う。
冒頭、「コンプレックスが強かった」と過去形にしているのも、以前と比べて度合いが弱まっただけという表現に過ぎない。自己嫌悪や劣等感という感情とは、これまでもこれからも長い付き合いになる。
こいつが居たからこそ、内省や思考が育った面もあるので一概に悪者とも言えない。天使であり悪魔でもある。
どれだけ幸せな生活を送っていても、人に褒められても、やはりどこまでも自分が許せない。でもそのおかげでもっと頑張ろうとも思えるので、表裏一体なのだ。
コンプレックスにもいい面はある。ただ、それを自分の武器に変えるには少し研磨する時間が必要なのだろう。研磨する過程こそが、実は一番輝いている瞬間なのかもしれない。
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