私の子どもには、ある障害があります。

生活に大きな支障があるわけではありませんが、同年代の子どもが自然にできることが、わが子には難しいことがあります。友達と一緒に走ること、発表会で人前に立つこと、ほんの小さな違いかもしれませんが、母である私にとっては心を大きく揺さぶる瞬間でした。  

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障害が発覚した当初、私は強烈なコンプレックスに苛まれました。「障害のある子を産んでしまった」という事実が、心に深い傷を残したのです。母親として健康な子どもを産む責任を果たせなかったように感じ、「私のような人間が子どもを産むべきではなかったのではないか」と自分を責め続けました。  

周りの子ができることを、わが子はできない。その現実を突きつけられるたびに胸が痛みました。運動会に出られない、みんなと同じ行動ができない。そんな姿を見るたび、私の中のコンプレックスは膨らみ続けました。眠れない夜も数えきれないほどありました。「この子に明るい未来はないのでは」と悲観し、責任を取って親をやめた方が良いのではないか、施設で育った方が幸せなのではと考えたこともあります。障害を持つ子を育てる苦労そのものよりも、「障害のある子の母親」として世間からどう見られるのかを恐れていたのです。

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そんな私の視界を変える出来事がありました。あるとき、同じような障害を持つお子さんを育てている方から「子育てに行き詰っている。どうやって育ててきたのか教えてもらえないか」と声をかけられたのです。私は戸惑いました。必死で悩み、迷いながら過ごしてきただけで、語れるような立派な経験などないと思っていたからです。  

それでも話をすると、相手はとても安心した表情を見せてくれ「話を聞けて良かった」と言ってくれました。その姿を見て初めて、「私が抱えてきたコンプレックスは、同じ立場の人にとっては道しるべになるのかもしれない」と感じました。  

さらに、子どもがお世話になっている施設からも「経験を話してもらえないか」と頼まれることがありました。自分が恥ずかしいと感じていた体験を、人に必要とされる。そのとき初めて、「私の経験には意味がある」と思えたのです。

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そこから少しずつ、見える景色が変わりました。これまで「障害のある子を産んでしまった」という事実は、私にとって消し去りたい烙印のようなものでした。けれども、同じ境遇に悩む人たちとつながり、相談を受けたり、話を聞いたりするようになると、それは「誰かの役に立つ経験」へと形を変えていったのです。  

いま私は、同じように悩む保護者たちと気持ちを共有し、安心できる場をつくろうとしています。完璧な答えを持っているわけではありません。でも、同じコンプレックスを抱えた者同士だからこそ分かち合える思いがあると実感しています。  

子どもの障害についても、もう不幸だとは思いません。もちろん不安や苦労が消えたわけではありませんが、今では「他の子と少し違うだけ」と穏やかに受け止められるようになりました。  

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あの頃の私のように、障害のある家族がいることで自分を責めてしまう人もいるでしょう。でも、その重さは必ず変わります。私はそのことを、自分の経験を通して信じられるようになりました。同じように悩む人の心が、少しでも軽くなるように。これからも尽力していきたいと思います。