友人に、恋人に。「頼り」を分散させて心の安定を保つ私の生存戦略

大人になって、友人が少ないということがなぜコンプレックスになってしまうのか、私にはよくわからない。
今の私はそこそこ友人がいる方だと思う。でも学生時代はそうでもなかった。大人になってから作った友人が割といるのだ。でもなぜ友人を作ったかというと、必要だからだ。
働き始めたばかりの私は家族と物理的にも心理的にも距離を置いていた。そのせいで孤独感が高まって、寂しさに取り込まれそうになった。しかしひとりの親友にばかり頼っていると、相手を潰してしまう。だからより多くの友人に、そして恋人に「頼り」を分散させて、自分の心の安定を保つ。それが私の生存戦略なのである。
学生時代の私に友人が少なかったのは、家族との関わりだけで寂しさが紛れていたからだ。誰かと一緒に居たい欲求は家族の存在で賄えばよかった。むしろ家族と関わるだけでもキャパの少ない私の心は精一杯で、そもそもひとり遊びも好きだったから、友人の存在はそこまで重要じゃなかった。学校でのペアワークで組めたり、休み時間に集まれたりする相手がいればそれで十分だったのである。
大人になってからも、会社で毎日のように同僚と顔を合わせるし、その点で言えばそう寂しかったわけじゃない。でも私には「家族」が欠けていた。家に帰れば私はひとりで、恋人はいないし、連絡を頻繁に取るほど親にも気を許していない。それに対して同僚たちは家族や恋人がいるひとが大半だった。比較して寂しくなったのである。
その分、私は多くの友人を作った。ひとりで家に居る時間を減らすために、よく誰かを飲みに誘ったし、休日も誰かしらに声をかけて遊んだ。お陰で職場内だけじゃなく、学生時代の友人とも以前より仲良くなったように思う。
だから大人になっても友人が少ないということは、私の視点からすれば、家族との関係で一定満たされている「幸せ」なのだ。
それでも友人がいないと思って気後れする人は、きっと私と同じように自他を比較してしまっているんだろう。
家族にコンプレックスを持った私も、家族やそれに準じた相手がいる人を羨ましく思った。だから友人が少なかったり、そもそも友人を作るのが苦手だったりする人も、友人が多そうに見える人を羨ましく思うんだと思う。
しかしせっかくなので「友人が多そうな」私の実態を赤裸々に明かしたいと思う。
私は友人の定義を「仕事以外の飲みに行ったことがある人」「休日に1回でも遊んだ人」としている。割と緩めだ。
そして私は友人とは誘うとき以外にそんなに連絡を取らない。別に仲良くなりたくないわけじゃないが、若干関係が遠い人の方が肩の力が抜けるし、気軽に本音を言えるのだ。たぶん相手もそうなんだと思う。だから私にとっての友人は、ある程度Win-Winな関係、と言い換えてもいい。
ただし、別に明確な利益があるから仲良くしているわけじゃない。敢えて言うならその人と時々話すことが私の利益で、私の支えになる。それ以上に何かしてほしいとか、ましてその人に他の関係より私を優先してほしいなんて思わない。
そういう一種ドライな関係を寂しいと思うこともないわけじゃない。私が友人関係に求めるのは、家族関係の一部みたいなものだからだ。でもそもそも誰もが自分の都合第一だ。だからある程度、寂しいなと思ってしまう自分の僅かな部分は割り切っている。
ちなみに友人を作るのは、そう難しく考えてはいけない。楽しそうだな、もうちょっと話してみたいな、と思ったら、その人をとりあえずランチやお茶に誘ってみればいい。誘われて断ってくる人は、特に同性ならそこまでいないから大丈夫だ。断られてもその人の都合が悪かっただけで、あなたが悪いわけじゃない。気にせず生きていこう。…なんだかナンパの指南書みたいになってしまった。
そういうわけで、大人になってからよく友人を作るのは私の生存戦略である。お陰様でそこそこ安定しているし、社会的欲求や承認欲求を満たせている。私に快く接してくださる人たちに感謝して、これからも生きていきたい。
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