年齢もこだわりも違う私たち。それでも、それくらいがちょうどいい

自転車、ゴルフ、気球、執筆。
すごくよく喋る、普通に喋る、たまに喋る、話しかけたら喋る。
今を極めたい、外に出たい、広く浅く、家庭を大事に。
趣味も性格も求めるキャリアもバラバラ、しかし不思議と心地良い関係。
なんで休み時間に一緒にトイレに行くんだろう。移動教室の時タイミングを見計らって一緒に行くんだろう。
でも一緒にいないと妙に疎外感を感じるから一緒にいよう。
一緒にいたいから一緒にいる。そんなシンプルな感情が生まれることなく、社会的な見た目だけが先行した私の友人関係。
そんなスタンスは当然相手にも見抜かれるわけで、学生時代のうちに見切りをつけられて離れて行かれた時もあれば、似たスタンス同士が集まった時は干渉することなく、しかし一度離れることがあればわざわざコミュニケーションを取ることもなくフェードアウト。
寂しい時もあった。しかし心のどこかではそんなもんだろうと思う私もいた。
友人とはなんだろう。同僚との差はどこにあるのだろう。
社会人がよく考える哲学部門があれば私的に間違いなく上位にランクインする問いである。
そもそも学生時代に一緒にいた人たちを友人と認知して良いのかもギリギリ怪しい私だ。当然答えが出るわけでもなく、かといって無理やり定義することもなく。
あえていうのであればお互いにとって心地よい関係性であること。それが私にとっての概念的な友人という存在だ。
そしてそれが当てはまるのが私の同期3人というわけである。
「4人でご飯とか行くの?」
「行きますよ。年に一回くらい」
「すくな!まあでもあなたたち4人はそれぞれ個性あるし違いそうだもんね」
「それぞれ好きなこととかスタンスは違いますかね」
「でも仲良いですよ」
「うん」
「そうそう」
年齢も生きてきたフィールドも何もかもが違う私たち4人。それぞれにこだわりがあって、仕事へのスタンス、人生へのスタンスがあって。最初はあまりにも違いすぎて、合うのかな、なんて思ったこともあった。きっと他の3人も思っていたのではないかと思う。
しかしそれぞれが無理のない範囲で調整をして、気がつけば今の形ができていた。
常に一緒にいるわけでもない。休みの日に頻繁に連絡を取り合うわけでもない。むしろ休みの日に何をしているのか知らないし、一応あるLINEグループのやりとりは数ヶ月に1回程度。
それでも、何かあれば一番に相談するのも、会社の扉を開ければ会社の人とは基本的に会いたくも関わりたくもないのにご飯を食べに行きたいなという気持ちが生まれる。それは同期の3人だけ。
学生時代というのは学校というフィールドが世界そのものだったと、今だからこそ冷静に分析することができる。
例え一緒にいることが違和感でも、そこでの関係性が社会における自分の立場と同義と考えると、多少なりとも無理をしても自分の立場を確立させることが重要だと思うのは自然な流れのように思える。
広い世界へと飛び出して、自由に人との関わりを選択することができて、自分の人生をカスタマイズできるそんな年齢へとシフトしたいま、それでもふとした時に関わりたいと思える。お互いが全く異なっていても、お互いに違うからこそ面白い。
近すぎず、遠すぎず、干渉しすぎず、無関心になりすぎず。
そんな関係性が大人になって3人もできて、今もつながっている。
それだけで十分幸せなのだとそう思える。
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