非インフルエンサーの感情や疑問、長い文章を読むことができる存在は貴重だった

金木犀のかおりが鼻をくすぐりはじめて少しした頃、金曜日の夜に半身浴をしながらスマホで文章をしたためていると、LINEの通知が来た。
かがみよかがみ公式からだった。「あぁ、毎週楽しみにしている今週のおすすめエッセイかな?」と軽い気持ちでトーク画面を開く。
しかし、サイトがクローズするとのお知らせだったので噴出していた汗が一瞬止まった。
終わりはいつも突然である。好きな芸能人の活動休止、解散。行きつけのお店の閉店。あれだけ鳴いていた蝉時雨の終焉。
それらと同じように、あっけないと思った。会者定離である。生まれたものは必ず亡くなるし、出会った人とは離れるさだめなのだ。
思い返せば、私の精神的な不調がピークの頃から投稿を始めた。今から約5年前の、コロナ禍のことだ。初めて記事を掲載して頂いた時は嬉しくて、なんだかちょっぴり恥ずかしかった。
それから自分の人生に何か起こるたび、物思うたび、スマホのメモに己の思考を記録した。そしてそれを投稿し、編集部の方にコメントを頂いてニヤつくというルーティンが日常の大事な一部になっていたのである。
完全な憶測でしかないが、映像メディアが台頭してきた昨今では、新聞や本をはじめとしたテキストメディアを利用・閲覧する人は減少しつつあるのかもしれない。映像は視覚と聴覚を同時に刺激されるため、文章では物足りなくなるのだろうか。
SNSをやめてから2ヶ月以上経った。YouTubeもそれまでと比較して試聴時間は減った。テレビもあまり観ない。
そのためか、感覚が研ぎ澄まされたというか人間本来の感覚を取り戻したような感じがあり、久々に映像メディアを観るとその情報量の多さに疲れてしまう。
いかに刺激が常習化していたかということを思い知らされた。その代わり、本やテキストはスラスラ入ってくる上に右脳が活性化し想像力が働くようになった。
現在もだが、これからの時代はますます映像一辺倒の時代となり、外連味の強いデマゴーグやAIフェイク動画が溢れるのだろう。
そんな中で若い女性のリアルな感情や日常生活の中での疑問など、非インフルエンサーの比較的長い文章を読むことができるかがみよかがみは、貴重な存在だったと思う。
修学旅行の夜の恋バナのように、普段なら話せないことをそれぞれが自由に話せる場だった。
一応テキストメディアは他にもあるものの、対象を限定していない。そのため老若男女種々入り乱れており、一定の秩序が保たれていないのだ。
私はかがみよかがみのおかげで文章を読むのも書くのも明らかに楽しくなったし、100本以上の記事を掲載頂いたことで自信もついた。
だから、「こんな三文随筆をいつも載せて下さってありがとうございました」と言うよりほかはない。正直、未来永劫残り続けるには恥ずかしい文章が多かったので、記事が消えること自体はそんなに寂しく感じなかった。
私は今後も文章を書き続けていく。筆名は色々変わるが、下のみゆうという名前は変えないつもりだ。ここで培ったものを心の宝箱に入れて、老人ホームに入るまで大切にしていこうと思う。
かがみすとはきっとそれぞれ驚きの感に打たれたことだろう。まさに青天の霹靂だった。
5年間という期間、本当にお世話になりました。
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