書くことは自分をすり減らすのではなく、与えて満たされていくこと

「それ、私も思ってた!」「分かる!」
そんな言葉に、何度も救われてきた。
書くという行為は、結局のところ自分をさらけ出すことだと思う。少なくとも、今の私にとってはそうだ。私はまだフィクションが書けない。空想の世界を自由に描くには、自分の外側に飛び出す想像力と技術が必要で、それは今の私にはまだ足りない。だから私は、どこかで誰かが言っていた「自分の人生を切り売りするように書く」方法しか取れない。でも、切り売りなんて言葉を使うと、まるで書くことで自分の人生がすり減っていくような、そんな気がしてしまう。
アンパンマンはすごい。自分の顔をちぎって困っている人に差し出して、それでまた笑顔を取り戻させる。その姿が、ふと重なる。誰かのために、自分の一部を差し出す。しかも、惜しみなく。でも、あの姿は決して「すり減って」いるのではなく、「与えることで自分も満たされている」ように見える。
かがみよかがみやnote、公募エッセイで、私は自分の心の奥にしまっていたものを言葉にしてきた。人にはなかなか言えないようなこと、自分の弱さや、どうしようもない感情。そんなことを書くとき、「これを読んだ人に変な奴だと思われないかな」と不安になることもあるし、読んでくれる人が嫌な気持ちにならないように、表現にはとても気を遣う。それでも全員に理解してもらえるわけではないのもわかっている。だから、毎回公開ボタンを押すときは、少しだけ緊張する。
けれど、想像していたよりもずっと、反応は温かかった。
かがみよかがみでは、担当編集者さんがいつも丁寧で、優しいコメントをくださった。それだけで「書いてよかった」と思えた。noteでは、まだ駆け出しの、無名の私の文章を読んでくれる人がいて、気づけば二カ月の間に14人もの方がフォローしてくれた。「スキ」も何百といただけて、まさかこんなに反応があるとは思わなかったから、毎回驚いてばかりだった。
初めてコメントをいただいたときは、批判的な内容だったらどうしようと通知が来ただけで緊張した。けれど、実際にはとてもあたたかかった。それから少しずつ、他の方からもコメントをいただけるようになった。
コメントは必ずしも残さなければならないものではない。それでもわざわざ書いてくれたということが、何より嬉しかった。自分の書いた言葉が、誰かの心に触れて、その人の時間を少しだけ使わせてもらえたこと。そういう小さなつながりに、書くことの意味を見出せるようになってきた。
私はこれからも、たぶん、自分の人生を切り売りするようにして書くのだと思う。でも、それが「すり減る」ことではなく、アンパンマンのように「分け与えることで自分も満たされる」という向き合い方ができる自分でありたい。
かがみよかがみは「私は変わらない、社会を変える」をコンセプトにしたエッセイ投稿メディアです。
「私」が持つ違和感を持ち寄り、社会を変えるムーブメントをつくっていくことが目標です。
恋愛やキャリアなど個人的な経験と、Metooやジェンダーなどの社会的関心が混ざり合ったエッセイやコラム、インタビューを配信しています。