「文章を書き続けられる才能=文才(II)」には恵まれなかったけれど

文才、という単語がある。
読ませる文章を書く人、文章が上手い人のことを指す、と認識している。
では、文章を紡ぎ続ける才能はなんと言うのだろう。
私は初期の頃何回かこのサイトにエッセイを投稿し、掲載していただいた。
私は元々自己主張が得意な方ではなく、文章を日常的に書き留めるわけでもなく、ただただ毎日を消化するOLとして生きていた。
だがこのサイトのエッセイテーマを読んで「今この瞬間残しておきたい感情」があることに気づいたのだ。
その感情を簡潔に表せるほど器用なほうではなかったので、それは長ったらしいエッセイになってしまったのだが、当時の編集部の方々やエッセイを読んだ方々からもありがたい感想をいただけて、勇気を出して書いて良かったと心から思えた。
心情を文字にすることの愉楽が、そこにはあった。
だが同時に、私には『文章にするのがつらい』という感情も確かに存在していた。
自分の言葉を、自分の表現で、でもそうすると万人に伝わらないかもしれない…。
この表現にしておいた方が無難かなあ…。
そう考えるうちに、“この瞬間残しておきたい感情”が自分の元から離れ、大衆化してしまったように思えたのだ。
いろんな人に読んでもらえるよう推敲を重ねた結果だ、とも言える。無論、読んでもらうには必要な作業であったことは確かだった。
ただ、なんというか、私のあの時の感情が純度100%ミント色だったとしたら、出来上がった文章は緑や水色やグレーがまだらに入ったミント色になってしまった気がするのだ。
あとは単純に、ネットの海に自分の文章を放つのが怖かった。
画面の向こうの人たちにどう解釈されるのかどうかが気になったし、違った伝わり方をしてしまい、不快に思う人が居ないだろうか…そんなことばかりを考えてしまった。
そして、私は文章をインターネットに投稿することをやめてしまった。
今日、久しぶりに筆をとったのは、このサイトにお世話になっていた20代の頃から色々経験して30代になり、今なら書けるかもしれないという自己満足の成れの果てもあるが、
この文章を読んでいる方にこんな人間も存在すると知っていただきたかったからである。
自分の言葉で人にものごとを伝えられる人は素晴らしい。
この出来事、この感情を皆さんと共有したい、共感してくれたら嬉しいと思って文章を紡げる人も素敵だ。
ただ、自分の中に秘めておきたい自分だけの感情があったっていいのだ。文章にしなくても、エッセイにしなくても。私だけが独り占めしてもいいのだ。
人に向けて文章を紡ぎ続けるのって意外と度胸と体力と忍耐が要るって、実際に文章を書いてみるまでわからなかった。
学生の頃、読書感想文の宿題は得意な方だったが、あれは読む人が限られていると頭でわかっていて、クローズドなコミュニティに向けてリラックスして書いていたからかもしれない。
ネットの世界は時々人が多すぎる。
自分で言葉を紡がなくても、誰かが書いた文章で共感できたり、救われたり、活力になったらそれだけで儲けもんだ。
文章を書くのが好きな人、文章を紡ぎ続けられることって才能だと思う。
略して文才だけど、本来の意味ではないから便宜上文才(II)とかにしておこうか。
とにかく、文才(II)がある人たち、どうかそれを今後も私たちに読ませて欲しい。
自分で書くのが苦手なだけで、人の文章を読むことは好きなのだ。
文章を書くのが苦手な人、書いてみたけどやっぱり怖くなったり、無理だなと思った人、仲間だ。
文才(II)にはあんまり恵まれなかったけど、感情はなくならない。
これからも、人の書いた文章を読んで感情を借りてみたり、かと思えば気まぐれに自分だけに文章を紡いでみたり、はたまた気まぐれに公開してみたり。
自分の思う通りに言葉を使って、生きていきましょう。
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