初めて「エッセイ」を書いて、こちらのかがみよかがみに投稿したのは25歳の時だった。あの頃は、永年の片想いの果てに付き合えた恋人と別れて、その時抱いていた結婚願望は単なる「挙式願望」とでも言うべき承認欲求の化身でしかなかったと気付き、メイクが下手で「オトナの女」になりきれずにいて、「お一人様」が心地よいと思い始めていた。

そしてしばらく経つと、世間がコロナ禍になったこともあり収入が心細く、新しい恋人も出来ずに結婚したかったかつての恋人を恋しく思ったり、恋にすらならなかった同級生を思ってみたり、過去を振り返ってばかりいて、現実に於いては見てくれも中身も成長しておらず、ある意味での成長ではと皮肉を言えば、体の体積だけが嵩んでいた。ようやく、20代の終わりが見えてきてしまったあたりで、これまでは胡座をかいてだらしなく過ごしていたなと反省してみたり、決意新たに立ち上がらんとしていたり、買ってしまった家を再生して拠点を構えて30代を迎えようとしている。

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これが、時々エッセイを書き綴りながら生きてきた、この10月に20代を終えてしまう私のざっくりとした20代の後半の人生だった。かがみすとページのプロフィールの文をまともに決められないまま、いつもその欄には「読むこと書くことが好きで、得意にしたいと思っています。」などという稚拙な文言が書かれていたが、漠然と「"物書き"になりたかった、いや、今でもなりたい」というささやかな夢を時々叶えられる場所がここ、「かがみよかがみ」にはあった。

投稿をして、しばらく経った頃に「エッセイ採用&フィードバックのご連絡」というLINEが届くと嬉しかったし、初めの頃は家族にもわざわざ知らせていた。書くことが得意になれたかはまだ今一つだと思うが、純粋に楽しかった。

もうまもなく終わってしまう20代を、書いてきたエッセイと共に振り返ってみても、私はそれほど大きくは変わっていない。相変わらず独身であるし、今でも最後に付き合った例の恋人を思い出すし、もう会えなくなってしまった同級生にも会いたいと思っているし、結婚式に招かれて赴けばやはり「挙式願望」も涌き出てくる。

相変わらず一人店主のワンオペ営業の日々では29歳の今でもノーメイクで居るし、少しばかり店の景気が回復するとまた天狗になりそうになるし、売上に一喜一憂して、収入はやはり安定とは行かない。嵩んだ体積を指摘してくれた旧友を見返すんだという怒りの思いもあるにはあるものの、結局まだ細くはない体型でいるまま30代を迎えることになりそうだし、買ってしまった新たな拠点としたい古家はまだまだ自慢の住まいにはリノベーション出来ていない。

けれど、少しずつでもいいから変えて行きたいと思っている。エッセイにしたためたことは、宣言のようなものなのだ。エッセイを書くことで、私の中にある考えをまとめることも考え直すことも出来たし、エッセイを書いたから読み直して振り返ることも出来た。

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だから、時々ではあったけれど私が物書きになれたこの経験とこのプラットフォームは大事なものであったと思っている。「かがみよかがみ」は、私が物書きになれるかもしれないことを、気が付かせてくれた。「かがみよかがみ」がある20代で良かった。エッセイを書き、掲載していただき、誰かに読んでもらい、感想をもらったりすることで得られたものや、「書いて良かった、届いて良かった」と私が感じられたことは善き経験になった。

確実に、私の糧になっていると思う。20代の私の糧は、30代の私の為にある。この糧で私は、いつも「なりたくて、なれなかった」と思っていた"物書き"にこれからはいつでも、どの場所でも、自ら発信して行きたいと、この場に於いて、書きしたためて宣言をする。書くことを得意にして、誰かに考えを届けたいし、私もまた新たな考え方を得られる機会を積極的に持ちたい。「かがみよかがみ」は毎週絶妙なテーマで、書いてみたいなと思ったものの時間がなくて書けなかったテーマも、書き始めたものの上手くまとめられなかったテーマもあった。それらを思い出せる限り、その時よりも歳は重ねてしまうけれどその時々での私が感じることを書き出して行きたいと思う。

「かがみよかがみ」はなくなってしまうけれど、私は私のなかにある己の考えや思いを写す「かがみ」に問い、こたえが浮かべば書いて、世に出して30代の一人の女がこう思って、生きているとフラッグを振りたい。社会まるごとを変えることは出来なくても、読んだ誰かの意識をほんの少し、変えるちからを私は信じて、書いて、生きていきたい。