「えーでもな」の前に「黙って最後まで聞いてみる」ができる人はどれだけいるのだろう
私は来年の1月で30歳になる。1月が誕生日の私は年末が近づくと「1年ってあっという間だな」とより一層思うし、ここ数年は誕生日を迎えるたびに「もうこんな年齢に」とも思っている。
そう思うけれど、30歳ってあっという間だったんだろうか。母のお腹の中から出てきて、今日まであっという間だったんだろうか。
あっという間だったかもしれないが、まあまあ長い時間を生きてきた気がする。時計だけ進んでいても、私が生まれてから取り残されているものは多い。
政治の話に関連すると少子高齢化なんて、中学受験の模試で書いた作文のテーマだった。
あれから20年近く経っているが、生まれてくる子どもは減り続けていると、いまだに政治家たちは頭を抱えている気がする。そんな振りなのかもしれないが。
少なくともあの頃の私は、もっと明るい未来を思い描いていた。
社会は変わらないのか。それとも、変わらない私たちが社会を変えられなかったのか。
果たして私は変わらなくても、社会は変わるのだろうか。
誕生日を迎えると、母はいつも言う。「過去と他人は変えられないけれど、自分と未来は変えられる」と。今では少しわかる気がする。
友人が求める結婚相手の条件として「議論ができる人」を挙げていた。それを聞いたとき、私も条件に加えたほど、人として大事な要素だと思う。
変わるためには、今の生活の繰り返しではダメだ。私の普通は誰かの特別だし、誰かにとっての日常は、私にとっての非日常なのだ。変わるためには、勇気と、飛び込む覚悟が必要だ。
「えーでもな」という気持ちになるのも分かる。実際に私もそうだから。ただそれ以前に「一度黙って最後まで聞いてみる」ができている人は、どれだけいるのだろう。
情報収集の主流となっているインターネット。SNSの切り抜きやネットニュースの見出しはほんの一部だと言うのに、それを全部だと思ってしまう。そして顔が見えないからと好き勝手に言う。確かにその人が悪いのかもしれないが、赤の他人である私たちに、そこまで言う権利はあるのだろうか。
そう思って、手のひらの上に打ち込んでは消す作業を何回もしてきた。送信ボタンを押す直前で、いつも指が止まる。それでも何か言いたくて、何度も書き直してしまう。画面越しのやり取りに慣れても、言葉の重さに慣れることはない。
自分の気持ちを、第三者の立場で一度黙って最後まで聞いてみるようにしている。
それでもやっぱり伝えたいと、自分の考えを発したあと、読んでくれた人からはさまざまな意見をもらえた。
「分かるよ」と波風立てない心地よい関係が続くこともあれば、「そんな考えもあるって面白いね」と言ってくれたうえで、私にはない視点を広げてくれることもあった。
そこで「合わないかも」と思ってしまった人とは、これ以上お互いに踏み込まないようにした。
自分自身では「変わったな」と思わないけれど、人との出会いの中で、私も少しずつ変わっているのかもしれない。
気づかないうちに、私の中の当たり前が少しずつ形を変えていく。社会というのは、世界全体とか日本全体とか、そんな大きな話ではなくて、私をつくっている狭いけれど確かにそこにある社会なのかもしれない。
たった一人の声では世界は動かないかもしれない。それでも、誰かの心が少し動くなら、それも確かな変化だと思う。社会をつくっているのは、見えないところで生きている無数の「私」だ。
30歳で人生を終えたいと思っていたけれど、ここからの30年、私の社会はどう変わるのだろう。
自分の考えを発信し、社会の声にも耳を傾けながら、私は私として変化を恐れずにこれからも生きていきたい。

かがみよかがみは「私は変わらない、社会を変える」をコンセプトにしたエッセイ投稿メディアです。
「私」が持つ違和感を持ち寄り、社会を変えるムーブメントをつくっていくことが目標です。
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