「あ、そうだ。この間偶然SNSのアカウント見つけちゃった」

昔からの知り合いにそう言われるたびに、ぎくりとする。

カフェで久しぶりの再会だった。注文したアイスティーをズズッと吸い込む。

私のSNSのアカウントなんて、探そうと思えばすぐに探せる。言われるたびに「ああ、やっぱりペンネームにしとけば良かったかもな」と思うのだけど、知り合いにバレたくないだけでペンネームにするのは、なんとなく私はしっくりこずにやめてしまった。

会社を退職してライターになろうとしていて、これから“私”という個人で仕事をしていこうと思っていたので、人目に惑わされる自分になりたくない、という気持ちもあった。

「……そう。見つけてくれてありがとうね!」

張り付いたような笑顔で答える。アカウントを見つけてもらえることはとても嬉しい。でも昔からの知り合いに言われるのはどうしてもドキッとしてしまう。

後ろめたいことは何にもないのに、「あいつ今こんなことをしているんだって」という話をされるんじゃないかと、見えない誰かの噂話に怯えてしまう。ああ、完全に被害妄想。

知っている人から「読んでいます」と言われると、恥ずかしくなる

インターネット上で発信するのは実に楽しい。この時代に生まれて良かったと心の底から思う。

インターネットがあったからこそ、私は生きやすくなったし、発信することで癒されているようにも感じる。

読んでいる相手が見えないから、自由に心のままに自分の気持ちを吐き出せるけれど、いざ知っている人から「読んでいます」と言われると、急に恥ずかしくなってしまう。

「会社を退職して今こんなことを書いているらしいよ」「〇〇を目指しているんだって」と思われるのがとても怖いから。「バカだな」「なれるわけないよ」なんて声を聞くのが怖いから。もはや私のことをみんなが思い出してしまうのが嫌だ。どうかもう、私のことは忘れてください。

ニコニコ笑いながらも心の中は冷や汗でびっしょり。早く別の話題にいってほしい、なんて願う。

「Twitterは大したこと全く書いてないし……」「noteもしょうもないよ。あははは」なんて笑ってその場をやり過ごす。胸がちくりと痛む。

幸い「またちょくちょく見るね」と深く掘られなくて済んだ。最近オープンしたお店に話題が移ってホッと胸をなでおろす。

ほぼ飲みきってしまったアイスティーの氷が、カランと鳴った。

どうしていつも現実の世界では謙遜してしまうのだろう

本当は、そんなこと思っていないくせに。

自分が一生懸命書いたものを「しょうもない」なんて思ったことがない。Twitterもnote
も自分の心をデトックスするため、ほんの少しでも誰かに届いたらいいなあ、なんて想いを込めているくせに。

なのにどうしていつも現実の世界では謙遜してしまうのだろう。自分をディスってしまうのだろう。インターネット上の私はいつも前を向いて進んでいるように感じるのに、実際の私はびくびくしている。また嘘をついてしまったことに、ひどくがっかりする。

インターネット上にいる、あの私はどこにいるのだろう。

私は一体、何に怯えているのだろう。

人目に怯える気持ちに打ち勝つために、毎日発信しているのかも

毎日の恒例であるnoteを書きながら考える。

きっと私は、まだ人目から自由になれていないのだなあ。

見えない誰かの声に、視線に、怯えている。

「人目なんて気にしない」と思っているけれど、長年染み付いた人目を気にするセンサーはそう簡単にはなくならない。

でもおそらく、そんな気持ちに打ち勝つために、毎日発信しているのかもしれない。何度も何度も、矛盾している自分に気がついて嫌になって。でも「今度こそ」と思って前に進む。

いつか見えない敵を軽々と倒せるように、強い自分になれるように、発信をしているかもしれない。

そんな日を早く迎えられるように、今日も公開ボタンを押す。