そもそも褒められる部分が少ない私である。家族にも友達にも、内面を褒められた記憶が少ない。私は小学生から高校生になるまで、どこか背伸びした態度をとっていた。横一文字の唇を顔に貼り付け、歯に衣着せない物言いをして、なんて世の中バカな人が多いのだろうと周りの気の合わない人たちを鼻で笑っていたのだ。今思い返しても顔が熱くなるほど後悔している。もちろん友達も少なかった。 

バイト終わりのラーメンは格別で、隣にはバイトの友達がいて

大学生になってアルバイトを始め、何種類かの職場を転々とし、4回目のバイト替えでやっと居心地の良い働き口に出会えた。社員の方々はそれはそれは優しく、ミスが人よりも多い私を(バイトの友人に言われる)怒るでもなく落胆するでもなく、気をつけなさいと嗜め、また元どおり世間話をしてくれる。

バイトの同僚とも友達になった。彼らもとても優しくて面白い。私のミスも笑い飛ばしてくれるし、彼らが仕事中に思いがけないところで手を貸してくれたり、反対に私がフォローすると有難がってくれる。

バイト終わりに彼らと行く深夜のラーメンは格別美味しい。くだらないことを言い合いながらラーメンができるのを待って、食べ終わってからは名残を惜しみながらにコンビニへ行き、食後のコーヒーを飲みながらダラダラ何時間も話し合う。次の日には何を話していたか覚えていないほど、調子よく言い合い笑い合う。

私の一言で友達を怒らせた。自由とわがままを履き違えていた。

しかし、ある時バイトの友達複数でドライブをしているときに、私の思いやりのない一言で一人の友達を怒らせてその場の空気を悪くしてしまったことがあった。脈絡のない冗談や共感できない様なノリについていけず、つい彼の様子を批判してしまった。車内は静まりかえった。

どうしてこんなことを言ってしまったんだろう、嫌われたかもしれない。面倒臭い女だと思われたかもしれない。みんなと解散して家で一人になると涙が出た。不安で眠れない。自己嫌悪で動けない。小学生の頃の私は人に嫌われることなんて屁でもなかったのに。小さな頃の刺々しい私がまだ脊髄の端っこにへばりついてるのを再認識した。偏屈で業突く張りで、傍若無人で未熟な私が無意識に口から飛び出して、誰かの穏やかな感情の波を逆撫でしてしまう。普段怒らない様な人の逆鱗に触れたり、不自然なノリのペースについていけなくて笑えなかったり。

私は甘えてしまっていたのだ。どんな言葉も受け入れてもらえると思っていた。わがままを自由だと取り違えていた。自分が恥ずかしくなったし、過去のいろいろなことを後悔した。そして、それでも仲良くしてくれている友達の懐の深さを思った。私はみんなのことがとても大事だと言うことに気がついた。変わらなければいけないと決意した。

少々不格好だって、人と素直に向き合う「可愛げ」が大事。

後日アルバイトで友人たちと顔を合わせた時、彼らと私は何ごともなかったかの様に挨拶を交わした。無難な上辺だけの付き合いを続けるつもりならそれでよかったのだろう。しかし私は彼らへの敬意と感謝と、これまでの関係を失いたくはなかった。とうとう「この間はごめんね」と言った。恥ずかしくて少しひょうきんな言い方になってしまったが、目を合わせて言うことができた。彼らはいつもの様に笑い飛ばしてくれた。馬鹿だなあと言って。より深く彼らと分かり合えた様な気がした。

友達付き合いが得意な人なら、こんな私の稚拙な振る舞いなど歯牙にも掛けないだろう。しかしこの時私は自分が大きく変わることができたと思えた。少し可愛げのある女性になれたのかもしれないと。

私にはできないことがたくさんある。要領よく働くことも調子の良い人付き合いも。しかし生まれて22年経って初めて、友人を大事にすることができた。可愛げが大事だと気がつくことができた。それがあると、小さな滞りもきれいに水に流すことができるし、人に対して思慮深くなれる。カタブツな私に、友達が教えてくれた。友達という関係を続けていくには、少しの可愛げのある努力と歩み寄りが大事なのだと言うことを。

それが最近できた私の可愛「げ」なところである。褒めてもらうほどの功績じゃないから、代わりに私が私自信を褒めようと思う。えらいぞ、がんばったな私。