「フツウに似合うと思う」
「そういうことはフツウだと思うけどなあ」
「そんなことされたらフツウは怒るだろう」
「フツウに考えたら、変だよね」

Twitterの検索欄に「普通」と打ち込んで出てきた文をいくつか列挙してみた。
フツウの活用方の多様さに感動しつつも、書き写しながら思った。

この書き手は、みんな無責任だ。

「普通」と言う言葉はいわゆる免罪符

言葉というものは思いがけずその人のあらゆるものを露わにしてしまう。
受けてきた教育のレベル、社会的地位、性格、品性、文化、国民性など、使う言葉によってこれらの背景がその人を形どるように浮き出てくる。二言三言交わすくらいでは誤魔化せても、一時間ほど会話を続ければ嘘のメッキは徐々に剥がれ出し、本性が垣間見えてしまう。そんな言語的なところから紐解くと、個人的にはこの「普通」と言う表現は非常に日本語的だと感じた。

例えば上でピックアップした言葉たちを英会話風に変えるとすると、

「フツウに似合うと思う」 → I think it suits you perfectly.
「そういうことはフツウだよ」 → I think it’s quite usual/normal.
「そんなことされたらフツウは怒るだろう」 → everyone would get mad if one got ~
「フツウに考えたら、変だよね」 → I think it’s weird/it seems unusual.

前後の文脈が曖昧なので多少異なるかもしれないが大体こういう訳が当てはまると思う。他の言語を習得することの面白さは、母国語をある日突然ひどく客観的に観察できることにある。実際この例を見ただけでも、日本語の主語の不在が目立つ。要は「私は」を「普通は」に置き換えることによって、自分の意見だという明言を避けているのだ。言葉の受け手がどう解釈したとしても、これは「私」が思って言ったことじゃなくて、「世間の・社会のスタンダード=普通」なんだ、と。そうすれば責任を持たなくていいし、実際に言葉の重みや意味が軽減されるという錯覚が生まれる。「普通」という言葉は、いわば免罪符だ。

「普通は」を「私は」に徐々にシフトしてみる

ふつうを超えていくための、小さくも大きな第一歩は、日々使っているちょっとした「普通は」を「私は」にシフトしていくことだった。いざ意識してやってみると、これが最初はとても怖い。本当に今言っていることは正しいのか再考するようになっては、これを言ったら相手が傷つくかも、悲しむかもなど考え出して止まらなくなったり、口ごもったりすることが何度もあった。こうやってエッセーを書くときも、deleteキーを叩いては打ち込む、一歩進んで二歩下がるスタイルのせいでなかなか書けない日があった。

試行錯誤しながらも続けていったことで一番良かったなと思ったのは、自分の好き嫌いがハッキリわかるなったこと。これまでは例えば買い物をしに行っても、店員さんの「普通にお似合いですよ」にいつも流されて、「普通に可愛い」から買っていた服がたくさんあった。もちろんそれらが嫌いなわけではないが、「私はそれが可愛いと思う」って言って買ったものの方が愛着が湧いて大事にするし、買ってわくわくする。好きになると、それはもう普通ではなく、自分にとっての特別になるのだ。

「私は」のあとにネガティブで否定的なワードを言うのはまだ憚られることもあるが、少しずつちゃんとソートしていくと、本当に好きな物事が明確になってくるから続けたい。「普通は」を「私は」に変えて、わたしはふつうを超えていく。「普通」の代わりに「私の特別」がもっともっと増えていくように祈りながら。