「ごめんね」。これは魔法の言葉。この言葉をたくさん言えば、人間関係はうまくいく。そう思っていたのは私だけ?

魔法の言葉だと思っていた「ごめんね」をたくさん言って、ハブられた

小学5年生。人間関係に悩んでいた私は、「ごめんね」をたくさん言った。自分が悪くなくても、「ごめんね、ごめんね」と。
だって、「ごめんね」は魔法の言葉だから。

そのときは急にきた。私は次の日グループからデコパッチんでピンッとされるようにハブられた。3人組だったのに。2人で次の図工の移動教室に向かってしまった。私はその日から空気に変身させられた。
ハブられた理由の1つ。「ゆきだるまちゃんはごめんねばっかり言っててやだ」

私は知らされた。「ごめんね」は魔法の言葉ではない。呪文のように闇雲に謝ればいいわけではないのだ、と。

私は、「ごめんね」「すみません」を使うのをあのときから出来る限りやめた。
自分に非があって謝るときは使う。でも、そうでないならば違う魔法を使いたい。

「すみません」より、ずっと空気は明るくて軽くなる「ありがとう」

「ありがとう」はどこにでも落ちているありふれた5文字だ。でも、私はこの5文字に人生観を表現してもらっている。

仕事で定時ギリギリまで後輩に片付けを付き合ってもらったとき、私は「ギリギリまでやってもらってすみません」とは言わない。「いつも細かいところまで気づいてくれて、助かりました。ありがとうございます」と敬語で言う。「すみません」よりずっと空気は明るくて軽くなる。

私が日々感じること。思うこと。人は1人で生きていかなければいけないけれど、1人では生きていけない。矛盾しているけれど、私はそう思う。「目の前のこの人がいなければ、私は生きていけない。本当にありがとうございます」と。

職場のお手洗いで会う清掃員さんは、いつもピカピカに隅々まで綺麗にしてくださっている。私はとっても恥ずかしいけれど、3秒の勇気!と思い「いつもありがとうございます」と言う。「こちらこそ」と笑顔で言ってもらったとき、私の心は肉汁が溢れ出るようにじゅわっと満たされていく。彼女が醸し出す空気は桜貝の色。平和で温かい。心が忙しないとき、彼女に会うと途端に時間はゆっくり元通りに刻む。

大学を卒業後、私は仲の良い14人に、素敵なところを30個書くため筆をとった。30個にしたのには理由がある。30個もあるとその人の隅の隅まで分かろうとしないと絶対に書けないと思ったから。
優しいとか、かわいいとか、背が高くてかっこいいとかそういう言葉は隅に置いておいた。私は言葉を愛している。その大好きな言葉たちを文章にして手紙にのせ、並べた。
「私(人)の成功を心から喜べる心の広さと綺麗な心を持っているところ」というように。「私ってこんなところあったっけ?」と友人は照れ臭そうに微笑んだ。友人たちの自分という辞書に少し加筆できたようだった。そんなピュアで謙虚なあなたもとっても好きだよと私は思った。31個目のいいところに書かせてほしいな。
でもね、私が1番伝えたかったこと。それは生きててくれてありがとう。こんな素敵なあなたへ。ということだ。

ちょっと頼りすぎなぐらい。毎日、何回も「ありがとう」を拝借する

1日何回、何十回、いや何百回かもしれない。私は「ありがとう」という言葉を拝借している。ちょっと頼りすぎなぐらい。今日も帰る家がそこに待っていてくれること、夜中に整備士さんががんばってくださったから電車が動くこと、駅のお花の作品にリースがかかっていてクリスマスを演奏してくれていること。その全てが尊く幸せに溢れている。

私は「ありがとう」という言葉に「ありがとう」を送りたい。

私はエッセイを書くのがとっても好きだ。でも、読んでくださる人がいてこそだと私は思う。
「読んでくださる貴重な時間をいただいてるわけだから、私しか書けない、少しでも幸せな気持ちになってもらえるような文章を」と心に決めてから文字を紡ぐ。
私には夢がある。大学の頃から。それは、幸せについて本を出すこと。幸せって思える人を1人でも増やしたい。

長くなってしまったけれど。最後に。
読んでくださったへ。
少し照れくさいけれど、読んでくださり、ありがとうございます。今日もあなたにとって麗しく潤いに溢れた1日になりますように。

「ありがとう」は魔法の言葉だ。