私の好きなことは料理である。
物心ついた時から祖母が料理をしている姿ばかり見ていたので、そのくらいの頃からよく一緒に料理をしていた。この自粛期間も料理三昧だ。

だが、趣味や特技で料理というのもなんだかいやらしく捉えられそうだし、私はあまり女性らしい性格をしていないため、世間の思う料理ができる女性のイメージからはかけ離れた存在だからなんだか言いにくいというのもあった。

ちなみに私が尊敬する料理人、料理研究家には男性の方が多い。
それなのになぜ女性が料理をするものというイメージがついているのだろう。我ながら不思議だった。

粗を探して悪口を言うのは、圧倒的に女性なのはなぜ?

小さい頃は、好きで身内に料理を振る舞うと褒めてもらえた。友達のところへお菓子を作って持って行くと喜んでもらえた。今ではその反応ははっきり分かれるようになった。

喜んで褒めてくれる人と、何かと粗を探して悪く言う人だ。粗を探すときは性格や生活のことまでチクチク言ってくることもある。ぱっと見は悪く言っているように見えない、巧妙な悪口だ。
いやになってしまって、作るのも疲れるなぁと言うことで家で食卓に出すものしか作らなくなった。

料理の話をすること自体、最初は相手を選んで慎重になる。内容についてももちろん慎重だ。最初はお互い料理が好きだということで楽しく話ができていても、あんまり難しいものを作っているだとか、手のかかるものを作っているなんて話をすると相手が引いてしまうこともあるからだ。
不思議なことに、和食ならどんなに手が込んでいても気にすることはなく、洋食だとひどく傷つくようなのだ。難しいものである。そしてこのような反応をする人は圧倒的に女性が多い。

というか、関係性にもよるだろうが男性に料理のことで粗探しなんてされたことは一度もない。

「余裕もないのに料理しろ言うのはあかん」 ある先生の言葉の重み

料理のことでちょっとしたいさかいがあると、その度不思議に思った。
料理ができることは女性にとってそこまで大事なことなんだろうか?
何に対して有利なんだろうか?結婚とか?それ以外に思い浮かばない……。
私なら結婚相手にそんなものを求めるような奴なんてこちらから願い下げだ。

だから付き合う前に料理が好きだなんて言ったことは、いやもっと言えば自分から男性に料理が好きでなんてことを言ったことは、料理好きだという男性一人を除いては一度もない。

尊敬する料理研究家の一人である土井善晴先生は一汁一菜を提唱し、余裕もないのに料理しろ言う家族はあかん。日常の料理では手を掛ける必要はありません。食事の形は家族それぞれ。と言う。また、著書では作る人と食べる人を分けた際に、作る人を(母親・父親)としている。一流の料理店で修行を重ね、長く食に携わってきた人の言葉は全て重みがある。

「できなければならない」 そのジェンダー的な考えやめませんか 

いい加減こういう、女性は料理ができなければならないというようなジェンダー的な考えはやめにしたらどうだろう。
料理に手間をかけなければならない、できなきゃいけないなんていう考えもそろそろやめにしするべきではないだろうか。
今のところ、これで心からいい思いをしている人なんて見たことがない。
土井先生は「料理することは、すでに愛している。食べる人はすでに愛されています。」と著書で語っている。
短時間で作れる素材を生かした料理はいくらでもある。そういうものがもっと評価される時代が来ればいいのに。

(参考:土井善晴著 「一汁一菜でよいという提案」)