2020年4月、私は、新社会人になった。
2020年11月、私は、パワハラを受けて休職した。

パワハラは、許されるものではないと思う。
しかしながら、パワハラ行為をした人は皆そんなつもりじゃなかったというし、それもその通りだろう。
そして、非常に残念なことに、言葉や行為を受けた人間が、耐えられるか耐えられないかの問題でもあるように思う。
私がもっと心身共に強ったら休まず会社に行けていたと思う。

過重労働とパワハラに耐えられなくなった

パワハラには、いろいろな種類があるが、私の場合は、明らかな過重労働だった。
もともと、なんでもきっちりとこなしたいと思う性格が裏目に出た。
新入社員であるにも拘わらず、次から次へと山のように仕事が振られた。(丸投げされた。)
全く仕事が終わってないのに、帰宅する上司のことが信じられなかった。
部下の失敗は、上司の責任であるにも関わらず、私の失敗は私の責任、上司の失敗も私の責任として叱責された。

休職になる前の月の残業時間は80時間を超えた。その月、会社で一番残業していたらしい。

機嫌が悪いと当たられることに耐えられなくなった。朝昼晩で指示が変わることにも耐えられらくなった。先輩からの指導も全て批判に聞こえて耐えられなくなった。

消えてなくなりたくなった。

家族や友人は、ありのままの私を受け入れてくれた

適応障害と診断され、休職することになった。
休職させてもらうことになったらなったで、働いていない自分を責めた。
頑張りたいのに頑張れない自分を責めた。

休むと決まった瞬間はほっとした。やっとゆっくり寝れると思った。
しかし、すぐに絶望感に襲われた。
まともに働けなくなった自分に絶望した。情けなくて涙が止まらなかった。

何で頑張れないんだろう。頑張りたい。でも、もう本当に頑張れない。

自分の中にある、この感情に気がついた。

私は、自分の能力が高くないことを自分自身で非常によく理解している。
だからこそ、人一倍、二倍、三倍、努力しなければいけないと思って生きてきた。
また、たとえ努力が実を結ばなかったとしても頑張った、やり切ったという思いが、自分を満たしてくれると考えていたし、もっと言うと頑張れない自分は無価値だとも思っていた。
兎にも角にも頑張ることが自分にとってはこの上なく重要だと思ってきた。そして、頑張ることで幸せを得られると思っていた。

でも、今回の件に関しては、どうやらそれは違ったみたいだった。
私を、幸せにしてくれたのは私が我武者羅になって、頑張って掴んだものではなかった。
私を支えてくれた、家族、友だち、恋人は頑張った私ではなく、ありのままの私が育んだものだった。
皆一様に「よく頑張ったね。ゆっくり休んだらいい」と言って、私の休職を受け入れてくれた。

自分は無価値だと呪いをかけていたのは、他でもない自分だった

もしも、自分の友だちが自分と同じような状況にあって自分と同じように頑張れなくなったら、責めたりしないし「よく頑張ったね。ゆっくり休んでね。」と言うだろう。

でも、私はいつからか自分に対してそのように言えなくなっていた。
「今日は頑張ったからスイーツ買っちゃおう」くらいの、物質的に自分を甘やかすことは頻繁にしていたが、精神的に優しくすることがいつからかできなくなっていた。

特に去年は、皆がそれぞれにしんどさを抱えて生きていたから、このくらいでめげてはいけない、弱音を吐いたらいけないと自分で自分の首を絞め続けた。

頑張れない自分、仕事が出来ない自分は周りに受け入れられないと思っていた。
でも、そう思っていたのは自分だけだったのかもしれない。

頑張れない自分は無価値だと自分で自分に呪いをかけていたのは、他でもない自分だった。
新卒1年目で躓いたことによって、自分で自分を縛っていたことに気が付いた。

2020年の私は、ブレーキの利かない暴走自転車になっていた。
2021年は、安全運転のできる自転車になりたい。頑張れない自分も受け入れられる自分になろう。頑張りすぎない自分になろう。
そして、他人にも自分にも優しくできる人になろう。