来世というものがあるのならば、私は”いちご蒸しパン”になりたいと思っている。
そんな風に初めて思ったのは中学2年生になってすぐ位だったと記憶しているが、昼食を買うために立ち寄ったコンビニに季節限定商品として置かれているいちご蒸しパンを見た時、イイなと思ったのだ。

季節限定のパン。春は穏やかに温かくて、適度に希望に満ちている

うっすらとピンクがかったルックスがまず可愛らしいし、春限定というところもいいと思った。夏ほどエネルギッシュではなく、秋ほどセンチメンタルでもなく、冬ほど孤独を感じない。春は穏やかに温かくて、適度に希望に満ちている。
なんとなく目に留まったいちご蒸しパンを私はその日の昼食に買った。いつも通り、クラスメイトの女の子たちとテーブルを囲んで私はいちご蒸しパンを頬張った。
柔らかくてふわふわしているのかと思いきや、意外にももっちりとした生地は一口噛み切ると、ぺったりと歯の裏にくっつくような不思議な食感だった。もぐもぐと口を動かせば、いちごの味といえばいちごの味のような人工的な砂糖の甘さを感じた。
とっても美味しいかと言われるとNoで、不味いかと聞かれてもNoで、まあまあというのがしっくりくるような味だった。次回見つけたらこれ買うかなあ、と一人脳裏で考えていると、目の前の子が「それ可愛いね。美味しい?」と聞いてきた。
私はまあまあだと思っていたのにも関わらず、「美味しい」と答える。私の返答にその子は満足したように「だよね」と笑ったのを覚えている。

いちごは魅力的なんだと腹落ち。あらゆるお菓子がコラボを組む

その時ふいに、”いちごは魅力的なものなんだ”と私は腹落ちした。
考えてみると、ショートケーキをショートケーキたらしめているのはいちごで、真っ白で甘い甘いクリームとふわふわのスポンジを文字通り土台にして背景にした上で、自分の真っ赤な美しさと甘酸っぱさ、ケーキにはないしゃりりとした食感でショートケーキを表現している。ショートケーキのいちごを最初に食べるか、最後に食べるかで論争が起きるほどの存在感がいちごにはある。
それは何もケーキに限った話ではなく、春になるとアフタヌーンティーを始め、いちごのチョコやらクッキーやらあらゆるお菓子がいちごとコラボを組み始める。そして、いちご蒸しパンがそうだったように、いちごは春を背負っている。いちごはクリスマスのある12月にも顔をだすのに、皆が待ちに待った春を連れてきましたよという顔で3月、4月を席巻していく。

社会を下支えしているのは、大勢に影響力のあるいちごではない

社会を下支えしているのは、大勢に影響力のあるいちごではない

中学生だった私は、そんないちごの圧倒的主人公感にふと息を漏らしたくなった。
一瞬、来世はいちごになってやろうと思ったけれど、すぐに、毎年、皆に期待されている春の主人公であることはきっと時に重荷にもなるのだろうと思い直して、私は来世いちごになることを望むのをやめた。
じゃあ私に似合う来世、できればいちご関連のものは何なんだろうと考えた時、浮かんだのは手元のいちご蒸しパンだった。
社会人になった今もその考えは変わらない。むしろ、社会を下支えしているのは大勢に影響力のあるいちごではなく、身の回りの人に春の喜びを少しだけ告げるいちご蒸しパンだと思うようになったから余計にそう思う。関わりのある10人程度の人、営業先とか同期とか子どもやママ友、先生に悪くないじゃんと思われているサラリーマンや主婦を、まあまあだよねと思わせるいちご蒸しパンに私はどうしようもなく魅かれてしまう。
来世私がいちご蒸しパンになったのなら、友だちと喧嘩して学校に行くのが億劫な中学生や子どもの将来が心配だとかで朝起きるのが少し憂鬱な主婦の女性の口角をほんの少しだけ上げてその生涯を終えたい。