理不尽なことを言われたときや突発的に負の感情をぶつけられたとき、相手の足裏を想像するようにしている。

足裏は、一目見たらその人への愛情を抱くことができるくらいのもの

直近で思い浮かべた足裏は、私を怒鳴りつけることで自分がミスをした“やっちゃった感”を払拭しようとしてくる年配のおじさんのものだった。
「話の通じない人がいるときはその人のことを宇宙人だと思いなさい」というような表現をしばしば耳にするが、そのような表現と足裏の話ではニュアンスは異なる。
というか、全く逆である。
そもそも私は目の前の人を宇宙人に例えるこの考え方に対してかなり抵抗がある。
その人のことを諦めているし、自分のことも諦めている。
そして何より、愛がない。
そこでお勧めしたいのが人の足裏を思い浮かべるという方法だ。
これは私が人の足裏が大好きだという前提に基づくため、まずは私の足裏に対する考え方について説明したい。

私にとって足裏は、一目見たらその人に対して愛情を抱くことができるくらいのものである。
ここでいう“愛”は恋愛感情という意味ではなく、もっと広い意味での“人間愛”に近いものだ。
関係上絶対に叶わないが、職場の上司や先輩、よく行くコンビニのお兄ちゃんの足裏だって見たいくらいである。

ずばり、足裏からはその人の幼少期を想像することができるから

「なんで足裏が好きなの?」
恐らく一生に一度しか口にしないであろう質問を何度か投げかけられたことがある。
人の足裏が好きな人がいたら、私だって自分のことを棚に上げて同じ質問をするだろう。
「足裏が好きな理由」というよりも、「足裏を見るとその人のことが好きになってしまう理由」になるのだが、ずばり、足裏からはその人の幼少期を想像することができるからだ。
どんな人にだって、たまごボーロのような指に、意味を成しているのか分からない申し訳程度の爪をつけていた幼少期が存在する。
その人のご両親はその幼い足裏をさすりながら“大きくなってね”と願いを込めていたかもしれない。
その足裏で初めて立ち上がった時には涙を流して喜んだかもしれない。
そしてその足裏で人生を歩み、今わたしの目の前にいる。
そのことがたまらなく愛しく、なんだか感謝の気持ちでいっぱいになるのである。
これが、足裏を見るとその人のことが好きになってしまう理由である。

その人を諦めるのではなく、まるっと愛してあげちゃう

話を元に戻すと、目の前に理不尽なことを言ってくる人がいたとして、理不尽なことを言っているその瞬間の点に目を向けるのではなく、足裏をトリガーとして自分が知らない線の部分に想いを馳せ、その人を愛することで柔らかく温かい心を保つことができる。
その人を諦めるのではなく、まるっと愛してあげちゃうのである。
人生で出会う人は限られている、私はできるだけ多くの人を愛したい。
シャットアウトする考え方よりも包み込む考え方を取り入れていきたい。
その結果傷ついたって損したって、その痛みごと愛せばいいじゃないか、とも思っている。
人の足裏を想いたい。

午前2時。
最近残業続きだな。
母とのLINEは3日前の私の既読無視でとまっていた。
「こんな状況だから年末年始は帰ってこないよね? スーパーであなたが好きなお菓子を手に取って、あぁ今年は帰ってこないのかって思って棚に戻す時、泣いちゃった」
ベッドにあぐらをかいた自分の足裏に目をやる。
明日お母さんの好きなお菓子を買って、手紙を書いて、実家に送ろうと思った。