子どもの頃から、自分がある程度の居心地の悪い場面に遭遇すると、それを上から見ている景色に視点が切り替わるのです。幼稚園に行きたくなくて登園前に泣きわめいている時や、書道教室で合格点がもらえず帰してもらえない時など、困っている自分を上から見ていることがありました。
幽体離脱のような不思議な感覚は大人になっても
「嫌だ」という感覚でもないのですが、この不思議な感じはなんだろうと思っていました。大人になった今持っている語彙力で表すと、幽体離脱、現実逃避のようなものでしょうか。子どもの頃はこれが当たり前の感覚でしたので、他者に話すこともありませんでしたし、わざわざ両親に報告することもありませんでした。
この不思議な感覚は、一定数の方が経験しているのではないかと思っているのですが、もしそのような方々にお会いすることができれば、私たちはきっとそれぞれの過去の思い出話で一晩中盛り上がることができるでしょう。
大人になった今でもその感覚は残っています。大学生の頃は、卒論が上手くまとまらずPCを前に苦戦している時、社会人になってからはどんなに処理しても減らない書類に溜息をついている時など、同じく八方塞がりの状態に陥ると、なぜだか自分を上から見ている画面が見えてくるのです。
きりきり舞いする自分を俯瞰して見ていたら改善点がわかった
社会人になり、この感覚の活用法を習得しました。新卒で就職した銀行では、金融窓口を担当していました。毎日、何百という枚数の伝票を正確に処理しなければなりません。
基本的にとろい私は先輩に電卓を投げられることもしばしばあり、そのような時に窓口の内側できりきり舞いする自分を上から見下ろしているのです。
いつもは、「あ、またこの感覚だ」と思うだけなのですが、その日はなぜだか自分の行動の足りなさを分析することができたのです。
地上にいると、てんぱって顔を真っ赤にしながら震える指で電卓をはじき、鳴った電話を反射で取るような戦場にいるのですが、一瞬でも上から見ることにより、なぜだか「まだ大丈夫。落ち着いて!」と地上にいる自分に冷静に声をかけられるようになったのです。
スピリチュアルなことは信じないけれど、神様ありがとう
この感覚を得て以来、今では幽体離脱現象が起きなくても、客観的に自分を上から見るようにし、適切な対応ができているか、優先順位は間違っていないかを考えることがあります。目の前のことで手一杯な地上の私をみて、エールを送ると共に、冷静に!と上からアドバイスできるのです。そうすると、不思議と地上の私も「まだ大丈夫」と思い、目の前の積重なった書類に手をかけることができます。
その使い方を知ってから、幼少期の私は夢見がちな少女であったことを思い出しました。無意識のうちに、自分を悲劇のヒロインに仕立て上げていたのかもしれません。上からではコントのように見える地上を、自分を主人公に見立てて客観的に楽しんでいたのかもしれません。ス
ピリチュアルなことは一切信じない私ですが、神様が何の取柄もない私にくれた不思議な感性なのではないかと思っています。