くうちゃんの「く」は白くて18歳くらいのお兄さん。

私が小学生くらいの時まで、ひとつひとつの文字に色と性別と年齢が見えていたことがあった。もしかしたら好きでよく遊んだひらがなの積み木に影響されていたのかもしれないけど、今でも何となく、ひらがなみんなの雰囲気を覚えている。

そのせいか、学校で配られるプリントも、文字の羅列はどこか賑やかで個性があったし、クラス替えでの新しいクラスメイトの名前も、それぞれの名前を構成する文字のみんなの雰囲気で覚えられるので便利だった。時折、会う前に見えていたその人の名前が作る色が、会うたびその人自身の雰囲気が醸す色に負けて、染めかわっていったりするのも面白くて、ひそかに楽しんでいた。

物にも心とか個性があるんじゃないかと思うようになった

そんな中、文字だけじゃなくて物にも心とか個性があるんじゃないかと思うようになった。子供ながらに落ち葉や野菜くずに顔に見える部分を見つけると、ほらやっぱり、と感情移入甚だしく、大事にせずにはいられなくて、大人に捨てられる前に引き出しにかくまってあげたりしていた。それぞれ人間には聞こえない言葉で話をしていて、人間に捕まってしまったことを憂えたり、悲しんだりしているように思えて、それに気づいているのは私だけかな、と思っていたからこっそり特別感に浸っていたような気もする。

こんな感覚を口に出して家族や友達に伝えることがあったか覚えていないけれど、だんだん歳を取って、広い世界を知りはじめ、ほかのことにも追われるようになるとこの感覚は薄れていってしまった。

ふとした時に、そんな感覚が舞い戻ることもあるけど、小さかった頃は愉快だったなあと冷ややかに思い出すだけだった。

嫌い、美味しくない…その悪口を聞いたらどんな気持ちになるだろう

でも、大学生になって生命の定義や生命維持の仕組みを専攻して学ぶようになると、こういう感覚って結構大事なんじゃないかと気づきはじめた。

例えば、食べ物の好き嫌いをしているひと。ピーマンでも魚でも、食べたくない料理やその欠片に向かって、嫌いだ、美味しくない、食べにくいから食べない……そんな悪口、自分が命を捧げて今からあなたの一部になろうというのに、そんなこと言われたらどんな気持ちになるのだろう。

その食材はそっと黙って悪口を聞いているかもしれないけれど、そんな奴にはきっと食べられたくないと腹を立てているか、捨てられるために生きてきたんじゃないのにと涙が止まらないほど悲しんでいるんじゃないかと、小さい頃の私だったら思うと思う。

お皿に残された食材も、日々懸命に命を繋ぐために頑張る細胞がいる

これだけでもいたたまれなくなるのに、私は生物学を学んだものだから、今になってその感覚に妙な自信を持つようになってしまった。人間が口にするものは全て生き物からできていて、みんな命をもってるし、細胞を持ってる。子孫を残そうとする利己的な遺伝子も、アミノ酸を3つ組み合わせてタンパク質にするあの巧みなプロセスもみんな持っている。

だから、私達の目に直接見えないだけで、お皿に残されたその食材も、私の体で起きているのと同じように日々懸命に生命維持のために頑張る細胞がいて、ひたすらに命を繋いできたんだなあと改めて眺めてしまう。それは生まれてからどんな景色を見て、感じて、どんな感動に触れて、どんな困難を乗り越えて、どんな風に命を終えたかったか。

そんなこんなが、好き嫌いの現場を見ているといっぺんに広がって、残すものなら私が食べてあげなきゃ!という気持ちになる。

これまで生きてきた私をどこか愛しく感じることができるように

22年生きてきて、ご飯を食べるのも、ものを使って便利に生きるのも、生まれてから日常に組み込まれた当たり前なことになってきた。時には、口にするものが例外なく自分と変わらない命だったってことが見えなくなってしまうことがある。

小さい頃の感覚とはまたちょっと違うかもしれないけれど、いま、その見えなくなったものをあえて見ようとしたとき、これまで生きてきた私をどこか愛しく感じることができる気がする。