「本当に優しい人はそういうことをしないよ」
「本当に強い人はそんな行動をとるべきではないよね」

「本当に~な人」という言葉の呪縛。家庭で、学校で、職場で、そしてネット上でもこの言葉を耳にする機会はかなり多い。
きっと、私たちの多くの人は今までそう感じたことが無くても、改めて考えてみれば、「本当に優しく」もなりたいだろうし、「本当に強く」もなれるのならばなってみたいのではないだろうか。
かくいう私もこの言葉に振り回されてきてしまった一人でもあった。何かのきっかけでこの「本当に」を笑顔で言われてしまうと、私のそれまでの行動は「本当に」良いものではなかったのか、としょんぼりしてしまい、その「本当に」望ましい行動に自分の行動の軌道修正を図ろうとしたこともよくあった。
そのルートから外れないように、自分を押し殺してしまっていた部分も多かった。
私は本当はこう感じているのに。
自分はこれが自分にとって正しいことだと思うからこうしたいのに。
こんな思いを抱えつつも、そのような思いは自分の中で排除されてきた。

ネットのお悩み相談で見つけたコメントに感じた強烈な嫌悪感

そんなある日、ネット上のお悩み相談の回答でまたこの言葉を見つけた。つい、自分と周りを比べてイライラしてしまうという質問者に、ニコニコ絵文字と共に使われていた「本当に自信があって心が穏やかな人はそんなことをしませんよ」という訳知り顔で優しい雰囲気の回答。それに納得したようにお礼コメントを書き込んでいた質問者。

このときはなぜか、正直、ぞっとした。
今までは流してしまっていたこのようなやり取りに強烈な嫌悪感を覚えた。
この質問者も回答者も、「本当に自信があって穏やかな人」というものを知っているのだろうか。
もちろん、「本当に自信があって穏やかな人」は自分と周りを比べてイライラすることはないのかもしれない。でも、その概念を問い直すこともなく鵜呑みにして正当化していく姿勢は、この2人の間だけの話ではなく、社会全体に通底するものだと感じた。

「本当に」なんて言葉に自分を殺されてたまるか。私は私のままで良い

何も疑問を持たずにある概念を受け入れて思考停止状態になっていく私たちの裏で、得をしていくのは誰なのか。
そして、社会的圧力や正当化された概念に苦しめられ、殺されていってしまう人はどれほど多いのだろうか。文字通り命を落とさなくても、自分の個性を失っていく人は数知れないだろう。
皆が「本当に」正しいものに向かって行進していく社会。自分自身もその中に加わっていたことに気がつき、恐怖を感じた。

私は、この「本当に」概念に異を唱えたい。
都合の良いように物事の善悪判断を正当化していく、という言葉は一見ありふれたもののようにも感じるけれど、実際にこのように身の回りで日々起こっているものなのだと気がつくと、ぞっとする部分がある。
「本当に」なんて言葉に自分を殺されてたまるか。私は私のままで良い。あなたはあなたのままで良い。どうか、この言葉に騙されないで。自分を守り続けて。