大きな公園の近くに住んでいる。休日に溢れる夫婦。家族。
結婚しているあの人たちは、皆どんな風に出会ったのだろう。
友達の紹介、合コン、SNS、マッチングアプリ。
あらゆる手段がある。出会った結果お互いを好きになれば、手段はなんだって構わない。どんな出会い方でも、幸せになっている夫婦はたくさんいる。
でも、もしも理想を語るならば、こんな風じゃないだろうか。
学校のクラスメイトと、自然な出会い。
趣味が合い、二人で出かけるようになって、付き合い始める。
ある時、二人とも『雷が落ちたように』確信する。この人と結婚する、と。
社会人として数年働き生活基盤が整った頃、結婚。
20代のうちに二人の子供に恵まれる。
日々が愛に溢れ、子供には「パパみたいな人と結婚しなね」「ママほどかわいい人はいないよ」と言い聞かせて暮らす。
結局のところ、これは全部わたしの両親の話だ。
こういうものが、結婚だと思っていた。
だって、小さい頃からずっと、幸せそうな両親にニコニコとそう言われていたんだから。
わたしにも落ちるその雷が、いつどこで、誰との出会いで落ちるのか、素直に楽しみに育ってきてしまったのだ。
「いつか雷が」信仰から逃れられないのは私だけじゃないらしい
そんなわたしも、気がつけば同級生が結婚したり、ママやパパになったりする年齢になっている。
皆が皆、雷が落ちるわけではないことも、運命の人と結婚するわけじゃないことも、もう知ってしまった。
それなのに、わたしはまだ「いつか雷が落ちるに違いない」という信仰から逃れることができない。
両親だけが特別でそんな話はあくまでフィクションだったとしたら、きっとおとなになるにつれて薄れていってくれただろうに。
なまじ実例があるから困ってしまうのだ。実際先に結婚した先輩方にも聞いたことがある。
「二人で鍋食べてたら、ふと、ああこの人と結婚するなって『ビビッと』きたんだよね」
「出会った瞬間に『絶対この子』って分かった。それが今の奥さん」
皆そこそこ運命を感じているじゃないか。
両親の愛に恵まれすぎた私の「運命の結婚」はどこに行けばいいのか
昔に比べると、自由な時代らしい。
急いで結婚することが求められるわけでもないし、結婚しないという選択肢も選べるようになったから。
確かに、結婚せずに生きることを選んでいる人を見ても、「そういう価値観なんだ」とは思うけれど「変わった価値観だ」とは1ミリも思わない。その選択も「ふつう」だ。
じゃあ、わたしは?
自分が結婚したり親になったりすることが、全く信じられないのだけれど。
祖母に「あなたの結婚式まで生きるのが目標だわ」と言われても、「長生きしてね……」としか言えないのだけれど。
二十数年かけて骨の髄まで染み込んでいる「幸せな結婚」をひっくり返せるほどの「結婚しなくたって幸せな人生」のロールモデルに出会えているわけでもなく。
頭ではもちろん分かっている。それなのにまだわたしは、わたしの雷がいつ落ちるのか、待っていてしまう。
自由な時代に、両親の愛に恵まれすぎて育ったわたしの「運命の結婚」信仰は、これからどこにゆけばよいのだろう?