日々街を歩いている時や、たまに歩く自然の中、いろんなものを見て嗅いで耳を澄ましては、そこからさまざまなことを妄想する。

熊、木々、珈琲。気づくと日常に溢れるものから妄想する私

たとえば、森のすぐ横に車の走る道路を見ては、鹿や狸が出てきて車と接触したら痛いし何が何だかわからないまま死んでしまうのは無念すぎるから、そうならないよう柵をつけてあげたいなぁとか。クマの駆除されるニュースを見ては、わたしが母熊で子どものために餌を探しに人里に下りてきていただけだったとしたら悲しすぎるとか。
電飾で飾られた街の木々を眺めては、あの木は電飾を重いと感じていないだろうか、わたしが木だったら、変なものが腕や身体にまとわりついて自由に風を感じられなくて嫌だなぁとか。
カフェで珈琲を注文しては、仮にこの珈琲とわたしが入れ替わったとしたら、わたしはどうするだろう、珈琲は人間になったら何をしたいだろう、とか。

幼少期から学生時代まではこんなふうに、妄想する対象がどうぶつや自然、身の回りの日常に溢れたモノたちだった。次第に大人になるにつれ、過ごす時間や触れるものは『仕事』が多くなった。そこでもまた、わたしは無意識にこの妄想を仕事の場でもしていた。自分が◯◯さんの立場だったら、どう思うか、どうしたいか、どうできるだろう。
育ちも考え方も違う、多種多様な人たちと共に働くことは楽しさもあり、また難しさもあった。だからこそ今まで培ってきた妄想力をつかい、相手の立場にたって周りを見渡すことで、さまざまな問題の解決策が見出せるのではないかと考えるようになった。

客観的に見るのではなく、疑似体験するからこそ見えてくる

ある時、仕事の悩みを仲のいい先輩に話したところ、返ってきた言葉が目から鱗だった。
『君は疑似体験をしてるんだよ。客観的に見てるんじゃなく、自分があたかも本当にその場にいるように、その人の立場に立って想像してるんじゃないかな。だからそうやって自分に関係のないことにも真剣に怒ったり喜んだり、熱量を注げるし本気になれるんだと思う。それって誰しもができるわけじゃないから、素晴らしいことだよ。』
わたしはそれまで、自分が特別な考え方をしているとは微塵も思っていなかった。むしろ、みんなも同じように考えているとさえ思っていたかもしれない。先輩のことばを何度も頭の中でくりかえし再生しながら過去を思い返してみると、なんだかすべてが腑に落ちた気がした。
仕事の場で、自分自身を◯◯さんという人間に置き換えてしまうのではなく、あくまで『おなじ立場にたつ』想像をしているのは、問題の選択肢を広げるためでもあった。通常運転だったらプランAの道しか開かれていなかったところ、わたしという違う考えを持つ者をその人の置かれている状況に介入させることで、こういう見方もできるかもしれない、などのプランBの道を作り出すことができるかもしれないからだ。そういう新たな選択肢の発見や創造がたのしくて、気がつけばいつも、そういった妄想を仕事でも日常でもしていたんじゃないかと、先輩の言葉にハッとさせられた。

こんなふうに無意識での感じ方や考え方を『感性』というのならば、人と話したり、指摘されたり、比べたりすることで、初めてそこで自分の感性が浮き彫りになるのではないかと思う。