結婚なんて、本とか映画とかテレビとか、誰かの物語のことで、私には一切関係も影響も無いことだと思う。漢字も知ってるし、意味もなんとなくならわかるけど、よくはわからない。しゃべっているときは「ケッコン」って感じだ。

ケッコンは素晴らしいけど、恋愛から縁遠い人生の私には本当に遠い話

ケッコンをしたいと思ったことはないけど、結婚と縁遠い人生だったわけではない。両親は結婚式こそ挙げていないが、結婚し、幸いなことに今も仲がよさそうだし、いとこの結婚式ではリングガールを務め、結婚式場でバイトもしていた。どのケッコンも素晴らしいと思うけど、ただ、それだけだ。
でも恋愛からは縁遠い人生だったといえる。実際、21歳になった今も処女だし卒業する目途も立っていない。はたちまで処女だったら死のうと思ってた中三の私、ごめんね。だから恋愛をしてケッコンをするっていうのは本当に、遠い話。

「今の彼氏とケッコンできたらいいなって…おもぅ…」
高校の時の仲良し三人で久々に飲んでた時に、一人が照れながら言った。隣の「きゃ~すてきじゃん!!」という満点反応の声を聞きながら、私はドン引きしていた。
高校生の私たちは、毎日教室で話して、爆笑して、汗だくで部活して、ずっと三人一緒で、全部の思い出には必ず二人がいる。私の高校生活は三人のキラキラとかベトベトとか、そういうのでできている。なのに?高校じゃ男子と話しているとこなんて見なかったのに?大学でたまたま知り合った人とそんなすぐに?ケッコン?

盛り上がる友人の結婚話。思春期の幻想に現実のボディブローが効く

相手の両親に会いに行ったという友人Aと、よどみなく祝福を送る友人B。Bの祝福と相槌で加速するように進むAの話に私は一気に置いていかれた。さっきまで以心伝心だと思ってた分身たちが、他人A・Bだったこと、思春期の幻想が現実に殴られる。
現実のボディーブローはよくきく。ずいぶん前から3年前とは違う現実に気づいたうえで無視していたことを思い知らされる。
卒業し、月一から三か月、半年に一回と、集まる頻度が低くなっても、全部共有できると思い込もうとしてた。でも思い返すと、初めから共有なんてしてきてないのだ。
一度も喧嘩をしたことが無い私たちは、あの頃何を話して笑ってたかなんて誰も覚えてない。深く踏み込まず、共感できるところをすり合わせる。その距離感が心地よくて仲良くなったのだ。
月日の経過とともに価値観や視点が変わっていったのに、三人でいるときはいつまでも閉鎖的な18歳の私がいた。共有できる時間が減るにつれて、共感できない部分を拒絶して、できる部分で埋め合わせようとした。見せかけの濃度をあげることで以前の私たちを取り戻そうとしていた。そしていつの間にか、わずかな埋めた部分と18歳までの部分が二人の全部かのように見えていった。

これが人の営みだから、親友の幸せに共感し共有できるようになりたい

そんなわけがない。どんな人とでも、間柄でも、全部は絶対にわかり合えないから興味を持って関係を築いたり、築かなかったりできる。その中で自分の中身が少しずつ変わっていく。これがきっと人の営みなのだ。彼女は、営みの中で私にはない、結婚という選択肢を手にした。選択肢はいつでも、誰とでも、どんな内容でも、あるのなら、選ぶ自由もあって、その決断に当事者以外は入りこめない。知っている。わかっていたのに、未だに二人に会うと高校の思い出に囚われる。私の宝物をこれ以上傷つけないため、中三の時にかけた呪いから脱したように、18歳の自分と決別する必要がある。

それでも、恋愛をしていない21歳の私にとっては「ケッコン」なのだけど、親友と呼んでくれる二人の物語に関わっている以上彼女たちが幸せを感じるのならば、私も共感し、共有できるようになりたいと思う。