私は去年一大決心を下した。
顔にあった大きなほくろを切除した。(以下単語を使いたくないので「物体」とする)
何回も病院に通い、ついに手術の日。
骨折も病気もしたことがなかった私にとって、手術着を着て、白いベットに寝っ転がり指が白い何かに挟まれ、自分の鼓動の電子音が聞こえることが、想像通りでドラマの世界にいるようで嬉しかった。しかしもっと無垢な空間だと思っていた手術室は意外と雑多で、FMラジオが流れていた。(ただの除去だったからである。)

私は「コンプレックスが消える!」そう考えただけで心がワクワクした。
手術前日には自分の黒い物体に、約20年私の顔にいてくれた黒い物体に、せめてもの気持ちで『嫌ってごめん』と鏡に向かってお礼を言ったのを今でも覚えている。
そんな事をしてしまうほど私は舞い上がっていて嬉しかった。

顔のほくろを取るという一大決心。みんなは「気にならなかった」と言った

中学高校時代では、物体を前髪で隠すという技を覚えた。
しかしこの物体のせいで、自分の顔が「どう見られるか」よりも「物体が見えてないか・見えてしまったらどうしよう」「相手は物体を見てキモいと思ってはいないか」そればかり考えていた。
部活中、前髪を押さえながら走っていると教師に「髪型ばかり気にするな!」と怒鳴られたことも少なくはなかった。
学生時代たくさん取っていた写真も、物体は見えていないと思っていても、見返してみると隙間から見えていることが多かった。
そして私は何度も自分の物体を隠す加工をして友達に写真を送った。

それほど気にしていた物体だった。
しかし切除してから会った友達の8割に、祝福の言葉と同時に「そんなところにほくろあったっけ~?全然気にならなかったのに~」と言われた。
とても驚いた。
私の顔にあった大きくて気持ち悪い物体を「気持ち悪い」と感じていなかったことに。

私は「ほくろ」という単語を使いたくないほど嫌いだ。
自分で物体のことを言いたくもなかったし知られたくもなかったので、一部の友達にしか気にしていることを言わなかった。
そのせいだろうか。
いや、考えに考えた結果、やはり人はそれほど他人に興味がないことに気づいた。
自分の好きな友達のどこにほくろがいくつあるのか、いくら考えても自分でもわからなかった。物体にとても敏感な私でもわからなかった。
そういうことだった。

やりたいことを「似合わない」と自分を納得させていたことにきづいた

そして切除してお母さんに「顔色が明るくなった」と言われた。
それは自分でもひしひし感じていた。黒い物体を取り、顔が肌色だけになったことで確かに白く見えるようになったのかもしれない。
それ以上に物体がなくなった今の自分はシースルーの前髪もできるようになったし、前髪をかきあげることさえできるのだ。
そういう意味なのかもしれない。
今までできないと考えていたことは「私には似合わない」と自分を理解させていたことに気づいた。
私はかきあげる髪型だってしたい、韓国アイドルみたいに前髪に束感を持たせてみたい。
そんな願望が今では叶う。前髪を薄くして少し理想に近づいた。

「自分が思っている以上に世間は人を気にしてない」これはよく聞く言葉かもしれない。
実際に体験した私は、なんだか残念という気持ちと同時に肩の荷が少し軽くなった気がした。
自分が気になるところは自分と相談して直せばいい。現代医療は、治せる方法がいくらだってあるのだから。自分の好きな自分になってこれからも自信を持って生きて行こう。
そう感じる体験であった。