「俺はさ愛してるんだよ」
父は私を叱る時、物凄い目力と、ぐちゃぐちゃそうな感情を全てまるめこんだような口調で私にこう伝える。
大学生になった私に、父は「俺の役目は終わったよ」と言った
その言葉を叱った時の最後に言うようになったのは、私が大学生になってからのような気がする。
父はもともと恐い人だった。いや、優しい人なのだ。優しいが故に子供や母の事になると感情表現が不器用だったのだなと今考えれば思う。しかし子供の頃の記憶とは断片的ゆえ衝撃的なものであればあるほど強烈に鮮明に脳裏に焼き付けられているものである。理由は忘れてしまったが幼稚園生くらいにお風呂で怒られたこと、小学生の時に「暗いところで本を読むな」と夜の10時くらいにベッドでハリーポッターを読んでたらビリビリに破られたこと。忘れもしないあれは『炎のゴブレット』の上巻である。これは生涯忘れないだろう。他にも中学受験、大学受験と成績の良くない私はたくさん叱られた。
しかし大学受験が無事終わり大学生になった私に父は「俺の役目は終わったよ」と言った。この後からだ。父が私に「愛してる」と伝えるようになったのは。
今叱られる事は夜帰ってくるのが遅い、言い方がきつい、だらしなさすぎるといった私の怠惰な面に関する事なのだが、基本的に私の両親は世間的に考えれば寛容な両親である思う。「何か強く言ったところでそんなに変わるわけじゃないし、ルールを決めたりそういう縛ったことはしなくない、結局縛ったところで破るしそんなことしたくないもんまず」という考えをもった母がいることがかなり大きいのかもしれない。確かに私もひどく自己中心的で「屁理屈」のプロフェッショナルなので、私と20年間育ててくれた母の言う事は的を射ていると思う。
こんなこと言われたら、屁理屈のプロフェッショナルは困るじゃないか
そこで登場するのだ。父の「愛してる」は。
「愛してる」
親から子供への愛情ほど計り知れないものはないだろう、私はまだそんな感情を知らないが、親から子供への無条件の愛情とは、語彙力が足りていないことは重々承知しているが「すごい」と思う。「すごい」に尽きる。
母のいわゆる「あまい」考え方が根本にあっても父のたくさん叱った後の力強い「愛してる」。「俺はさほんとに愛してるんだよ、こんなに感情的になることないんだよどうでもいいから。でもさ世界で一番心の底から愛してるからこそわかって欲しいんだよ」
こんなこと言われたら、屁理屈のプロフェッショナルは困るじゃないか。父は頭が良い人だ。私が悪い事をしたくなる時必ず父の存在が頭に浮かぶ。父は頭がめっぽう良いらしい。
父は母の事が大好きである。
子供の頃に怒られた理由は大体「ママを悲しませるな、ママ悲しませたらどうなるかわかってんねやろな」だった。今でも週末お酒を飲んで父はよく言う。「俺さ、ママに出会えたことが本当に幸せだよ、全ての運をそこに使ったんだと思う」と。忠犬ハチ公みたいな人だなと呆れて思うが、母を愛してる父で良かったとしみじみ思うし、私も弟も両親のようになりたいと話している。
父は家族が大好きである。
家族のことを「愛してる」。私の家には愛が溢れてる。
それはきっと父が家族をたくさん愛してるから、母が子供たちを愛してるから。
私と弟はそんな家族を愛してる。そして自分を愛してる。たくさんの愛に溢れている環境で育った私は自分のことを大好きでいられるのだと思う。
人は愛されることで、幸せに自分の事を大好きで生きられる
私の友達は自分の事をマイナスで捉える人が凄く多い、「自分なんか」と卑下することが多い。私からしたらみんな良いところがたくさんあるのに、マイナス思考が自分の魅力に気づく事を邪魔している。私は「絶対人生プラス思考の方が幸せだよ!」と力説するが、こう考えられるのはきっと私を愛してくれる人がたくさんいることを知っているからだと思う。
みんな愛されてるのにその愛に気づける環境にない人が多いのではないだろうか。
私が魅力的に感じる友達は愛を知ってる友達である。すぐに思い浮かぶあの子は家族が大好きで、クリスマスは絶対に家族を過ごすし、家族の誕生日は一大イベントでいつも祝ってて、写真からは愛が伝わってくる、お父さんは約3年前になくなっているが今でも父の日と父の誕生日をSNSでお祝いしている。
家族への愛、友達への愛、恋人への愛、どんな愛でも人は愛されることで、幸せに自分の事を大好きで生きられると思う。
私は家族からの愛、そして、父からの「愛してる」をうけることで生きているんじゃないか、なんだか恥ずかしいけどそんな気がする。