韓国人の両親を持つ私は、日本で生まれ育った。お正月や法事のときは、伝統的な韓国料理がテーブルに敷き詰められ、家族の呼び方、簡単な単語も私が赤ちゃんの頃から韓国語を使わせていたそうだ。
異国に生まれても自分のルーツを知ることが大事だという祖父の教えから、母は私たちを幼稚園~中学まで在日朝鮮学校に通わせた。
私が幼稚園から中学校まで過ごした「朝鮮学校」とは
朝鮮学校と聞くと、一体どうゆう教育をしている場所なのか懐疑的な気持ちを抱く人もいるかも知れない。“分からないもの”は、いつだって怖い。教卓の上(生徒たちから常に見える位置)に金日成と金正日の肖像画が飾ってあったり、井筒監督の『パッチギ』などといった、なんだか宗教的で怖いイメージを抱く人もいると思う。
「朝鮮」と聞くだけで、“拉致問題”や“核兵器・ミサイル”といった負の連想をする人も、日本には比較的多いように感じる。
朝鮮学校といっても日本に存在している在日朝鮮学校に通う生徒の中には、現在の大韓民国に故郷を持つ生徒も多い。約半分くらいの割合だろうか。先生たちは朝鮮も韓国もひとつの文化を持つ同じ民族で、近い将来必ず統一されると信じている。
だから教室には常に、“朝鮮人”と“韓国人”が居た。けれど、私はクラスメイトたちが何人かなんて全く意識したことはなかったし、他の生徒たちもそうだと思う。
私が通っていたのはもう10年も前のことだけど、当時はまだ実際に肖像画を飾っていた。先生たちは彼らを「祖国の父であり英雄」と唱え、私たちにいつも彼らを敬うよう指示した。
国語の時間には朝鮮・韓国語を学び、授業中はもちろん、友人との日常会話も一切の日本語の使用を禁止されていた。そのお陰もあり、生徒たちは日本語と韓国語を同時に話せるバイリンガルであることが通常だった。それ以外は特に変わったところはなく、ごく普通の学校だ。運動会も学芸会もするし、バザー、夏には納涼大会もする。
けれど、もちろん楽しいことだけではなかった。学校から家に帰ると、テレビのニュースでは朝鮮の国際問題が取り上げられ、授業で学んだものと異なる歴史が事実として報道される。
頭の中が混乱し、心が摩擦することは日常茶飯事だった。学校で教わることが正しいのかもしれない。けれど、周りの人にどう思われているのか、自分が在日だということに対してどんな印象を持たれるのか、多感な中学生にとってはとても大きな問題だった。自分が日本社会においてマイノリティーな存在であることに将来の不安も抱いていた。
高校から「日本の学校」に通い、私の視野が一気に広がった
ある日、母は「高校からは日本学校に通いなさい」と言った。幼稚園から朝鮮学校に通っていたのに、今更日本の学校に通って溶け込めるわけがないと思い怖かった。
それ以上に、突然日本の学校に通うようにと言った母の真意が読み取れずにいた。母は先生たちの言うように、日本のメディアに左右されず、異国に産まれても祖国の名誉を守るように生きることを教えようとしていたのではないのか。
不安で仕方なかったけれど、結局私は地元の日本私立高校に合格し、通うことになった。在日だからイジめられるんじゃないか。友達ができなかったらどうしよう。できるだけ目立たないよう心掛けようと思った。
けれどそこは、私がそれまで想像していたような場所とは全く違っていた。入学式の日に友達ができた。先生たちも私が「在日であるということを隠さないで良い」「隠したければ隠せばいい」「自分の信じる方を自由に選べば良い」と言った。
すぐに、というわけではなかったけれど、徐々に自分の持っていた先入観に気付き心を開けるようになった。私が韓国人であることを学校で話すと「韓国語も話せて羨ましい!」と言われた。頭を打たれたような衝撃だった。自分が日本人でないことに関して、羨ましいと言われるなんて。視野が一気に広がり世界が広がった気がした。
自分の「ルーツ」を知ること。それが出来て初めて異文化を理解できる
後日、母に何故日本学校に行かせたのかを聞くと「いずれかに偏った思想だけを持った人にはなって欲しくなかった。けれど自分のルーツを知らないままでは自信を持てなくなるから朝鮮学校に通わせた」と言った。10年前に亡くなった祖父と、母の愛はときに大きすぎてすぐに理解することが難しい。
私は大学でイギリスに留学し、もっと広い世界に目を向けようとした。そこにはたくさんのマイノリティーがあった。
自分のルーツを知り、母国語を話す。それが出来て初めて他の文化を受け入れられるようになったと思う。いろんな人、考え方、文化がある方が面白い。多様性が求められる現代社会の中で胸を張って、自分とは何者かを知り、初めて出会う未知なる存在を受け入れる準備が出来ている人には、これからもっと広い世界が用意されていると思う。
私がこう思えるようになったのは、在日朝鮮学校での学び、日本の高校で出会った友人、先生、社会に出て出会った素晴らしい人たちとの出会いがあったからだ。
特に東京で出会った一人の男性には大きな影響を受け、今も心から尊敬している。彼は全国で有名なコメディアンで、テレビで取り上げることはタブーとされている世論をもズバッと斬る強さと、誰も関心を持とうとしない“弱者”と言われる人たちに目を向け、持ち前のユーモアで助けてくれるヒーローのような存在だと思う。私もいつか、彼のように愛溢れる人になりたい。