日常は面白いと人に思わせることができる人はすごい、と小学生のころから思っていた。そしてそれをできる職業の1つは、エッセイストだと考えていた。そのように思ったきっかけは、さくらももこの作品を読んだことであった。なんでもない日常のことを書いて、人を面白がらせることができるのは、魔法のように思えた。

日常や人生を魅力的なものだと人に感じさせたい

 小学校から高校まで、私にはエッセイストの真似事をする機会が多くあった。例えば夏休みの日記の宿題。毎日3時間くらい机に向かい、エッセイストになった気分でその日起きたことを書いていた。
 レトルトのイカ墨パスタソースを食べた後にインターホンを受けて玄関先に出てしまったことも、両親が喧嘩をして焼きそばを投げ合ったことも日記帳にしたためた。

 日常や人生を魅力的なものだと人に感じさせたいという想いは、高校3年生のときに強くなった。それは、学業不振という理由で自殺を選択する子どもがいるというデータを見たときであった。学校の中の学業という狭い指標に到達できないということが、その子どもに死を選ばせたことがショックであった。日常が面白く、希望が残っているようなものに見えたら、その子はもう少し生きてみようと思えたのだろうか、と考えた。

 そのときからである、「人が、人や人生に対するポジティブな感情をもてるようにする」という方向性が私の中で定まったのは。

「現場か本社か」2つのルートを示される度、違和感を覚えていた

 さて、それから10年以上経過して、私は今エッセイストを職業としていない。私が給料を稼ぐ方法は、会社員として事務・企画の仕事をすることだ。それでも自分の仕事がいつか、人が、人や人生に対するポジティブな感情をもつきっかけになればいいなという想いを忘れていないつもりであった。

 しかし、実は忘れていたのだ。最近、社内でのキャリアの話になると「現場か本社か」という二項対立で語られることが多いと感じることがあった。これは、自分の勤める会社が「現場」と「本社」という組織分けをする形態をとっているからこそ出る話であるが、要するにこれから先、駒として動くのか、司令塔として駒を動かすのかということを言っており、「現場」より「本社」が上位という考え方が見え隠れする話題であった。

 私は今後のキャリアについて「現場か本社か」の2つのルートを示される度、違和感を覚え、落ち込んでいた。それは上位として語られる「本社」のルートに乗ることができない恐怖といったものともまた少し異なるものであり、空虚な気持ちであった。

「誰かを笑顔にしている」といったような働く理由が欠けていた

 そんなとき、あるオンラインツアーに参加した。これは新型コロナウイルス感染症流行により身近になったサービス「ZOOM」を用いたツアーで、ガイドの案内のもと墨田区の職人さんの手仕事を中継で見て回るものであった。そこでは東京スカイツリーが見える景色を眺めながら、金属の細工や屏風、革細工などの工程やその手仕事の歴史などを知ることを楽しんだ。職人さんたちはそれぞれ光る技をもっていて、それを私たちに説明してくれる。そのような仕事は素晴らしくて大切だなあと思った。そしてその職人さんたちを紹介しているガイドもまた、素敵な仕事だとおもった。

 素敵な仕事であふれたそのツアーの締めくくりに、ガイドがこう語った。「参加者のみんな、仕事はそれぞれ違う。だが仕事に上も下も大きいも小さいもない。あなたの仕事は誰かを笑顔にしている」

 偶然救われることはあるものだ。このとき、最近自分を落ち込ませていた違和感の正体がわかった気がした。「本社か現場か」という話題は、働く場所や役割、つまり仕事の上下大小のことにすぎない。ここには「誰かを笑顔にしている」といったような働く理由が欠けているのであった。

 そして私は「本社か現場か」というルート選択に悩まされながら、いつの間に自分の働く理由を忘れ、空虚な気持ちになっていたのだった。私が働く理由は、人が、人や人生に対するポジティブな感情をもてるようにしたいからだ。おそらくこれは、給料を稼ぐ方法が変わっても変わらないことである。