わたしは、就活をしたことがない。

大学卒業後、それまでバイトしていた翻訳会社にそのままヌルッと就職。学生時代とほとんど代わり映えのない日々と自分に不安を感じ始めた頃、知り合いに誘われて画廊に転職。美術は好きなものの、昭和の雰囲気が色濃く残る業界でキャリアパスを思い描けず、貯金で自分探しをすることに。それまでのデスクワークから一転して、週5でフラワーアレンジメントの訓練校に通った。さあ、これから花業界で職探し、というところに広告代理店の社内翻訳をしないか、と声がかかり、また翻訳業界に戻ってきた。

張り詰めた空気のシャットアウトに精一杯。キラキラした気分に浸れず

とはいえ、出世、肩書き、ブランド、年収…ということにまったく関心のない、ただの翻訳マシーンとして純粋培養されてきたわたしが、なんとかランキングで1、2位を争うような大手企業に馴染めるはずがない。休み時間は運河のほとりで日影を探して、うつろう雲ばかり見ていた。社内で依頼されるのは、広告字幕、CM絵コンテ、ライセンス契約書、撮影企画の和訳と英訳。周りは、著名なクリエイターや有名企業とプロジェクトをこなし、実績とコネを作って去っていく人がほとんど。それか、体調を崩して、いつの間にかリタイアしていった。

わたしは、張り詰めた空気をシャットアウトするのに精一杯で、夕方、麻布のレストランで打ち上げをしても、品川のバーで顔合わせをしても、新宿ゴールデン街でオールしても、キラキラした気分には浸れなかった。仕事中も、たまにひとりで作業できるときは、MacBookと社用iPhoneだけ持って共有スペースに移った。どれだけ作業を丁寧にやっても、かなりやる気がなさそうに見えたと思う。

いつどこで誰といても、本当の自分でいられると確信できることは

もちろん、その会社を辞めることは運命で決まっていた。どんなに、社会的に立派なわたしにしてくれたとしても。問題は、他の誰でもない、わたしにとって、働くとは何か。働くことで、何を生み出したいのか、ということだった。たとえファイナルアンサーではないにしても、自分なりの答えを見つける必要があった。20代後半にして、やっとリアリティを帯びてきた問い。

圧倒的に向いていない環境で、お互いに価値観が宇宙人のような人たちと仕事をし、それでも心が休まる時間。楽しかったり、面白かったり、もっとできるようになったらいいのに、それが誰かの役に立ったら幸せ、と思えることは何か、考えてみる。それをしているときは、いつどこで誰といても、本当の自分でいられる、と確信できること。それが、わたしにとって「翻訳をする」ことだと気がついた。そして、フリーランスになることを決意。今は、家でボードゲーム作品や、広告・ファッション・映像の翻訳をしている。

遠く離れた国で青春を過ごし、村上春樹の小説を読んで過ごしていた

まだ学生だった頃、たまたま東京に来ていた高校時代の知り合いと、ひょんなことから再会したことがある。ひょんなこと、というのは、その彼がもう二度と会うことはないと思っていた、イギリス時代のクラスメートだったからだ。それほど仲がよかったわけではないし、SNSで友達になってはいるけれど連絡はとっていなかった。それが、突然頼まれて、街を1日案内することになったのだ。

もともと人見知りのあがり症なため、なす術なしと思いつつ、とりあえず新宿のジャズ喫茶「DUG」で待ち合わせをした。すると、話しているうち、彼も同じく村上春樹のファンだとわかった。ハルキ・ムラカミの。たいしてお互いを知らないまま16才で離れ離れになり、ハタチを過ぎて再会するまでの間のわたしたちは、それぞれ遠く離れた国で青春を過ごし、ともに村上春樹の小説を読んで過ごしていた。

「翻訳」について思う。引っ込み思案のわたしには向いていた

そのときは、とりあえず話題が見つかったことにホッとして、あまり深くは考えなかった。けれど、「翻訳」について思うとき、わたしは、普通に日本語で読んだ『ねじまき鳥クロニクル』と、いつか彼が読んだ英訳版の“The Wind-Up Bird Chronicle”が、隣り合って本棚に収まっている様子をどこか遠くに思い浮かべる。翻訳をすること、翻訳されたものを読むこと。それは、たとえどんなに短い文章でも、世界に小さな結び目をつくっていく。あまりに小さくて、ほとんど見えないかもしれないけれど、引っ込み思案のわたしには向いている仕事だと思う。