「悪口を言って一番傷つくのは自分」と誰かが言っていた。これは少々高尚な意味がある。悪口を言うともちろん相手を傷つけるが、後で取り返しのつかない言葉を吐いた醜い自分を呪って、後悔して、苦しめてしまう、という意味だ。
これも人生経験。けれど心がチクチクするあのエピソード
これは昔、私がよく経験したことでもある。それは別に誰かの悪口を言ったとか、喧嘩して吐く暴言でのことではない。意図せず吐いた言葉が相手を深く傷つけてしまったと知った時、よく後悔の渦に苛まれたものだ。心の中でごめんなさい、となんども唱えて自分勝手ながら涙したり。それから時が過ぎ、社会に出て多くの経験をする中で、相手を傷つけてしまった多くの言葉・体験は学びとなって穏やかに私の中にしまわれている。
でも、中には今でもふと思い出して、何度も謝りたい、と思う記憶もある。その中の1つは私にとってはとても複雑で、色々な感情と思いが渦巻いていて、今思い出しても新たな感情が生まれてくる。悪意は全くない、純真無垢な言葉が生み出したナイフのような言葉とあの時の様々な思い。今ここで振り返り、整理してみたいと思う。
「家族はいるの?」私は無垢な悪魔になっていた
あれは、何歳の時のことだろうか。たぶん小学校4年生くらい。私は少し大人びていて、読書や学ぶことが好きな子供だったので、だいぶ世の中のこともわかり始めていたころだと思う。
ある日家に帰ると、母が家に学生時代の友達Yさんを連れてきていた。久しぶりに会ったとのことで、昔話に花が咲いていたのだろう、母はとても嬉しそうだった。私ももちろん挨拶をして、楽しく話の輪に入れてもらっていた。
母がキッチンに抜けて、Yさんと2人っきりになった時のこと。ふと気になって私は尋ねた。「家族はいるの?」いないよ、とYさんは答えた。結婚してないのだ、と。「結婚しないの?子供はいないの?」私の会う周りの人は、同級生のお母さん、という間柄の人ばかりだったからだろう、私は不思議な気持ちだった。
子供がいないとはどういうこと?子供がいないとどうなるんだろう?理科の勉強をしているような気持ちで、私はそのことについて考えていた。「子供がいなかったら自分の子孫を残さないということ。自分の遺伝子が途絶えてしまう、ということなんだ!」新しい世紀の大発見をしたような気持ちで、私はおそらくきらきらしながらそのようなことを言った。
それから、しばらく母とYさんは談笑し、帰る間際には母にピアノを披露してあげて、と言われ恥ずかしながら演奏した。Yさんは「上手」と言ってにこにこしながら帰っていった。私もなんだか上機嫌で風呂場で靴を洗っていた時、突然風呂の扉が開いた。
「なんてことしてくれたのよ!友達の関係にヒビがはいったじゃない!」意味がわからなかった。母も気が動転してよく伝えられなかったのだろう、涙目でたどたどしく怒りながら叫ぶ母を見て、私は親なら悪いことはしっかり教え諭してくれればいいのに、と少し大人びたふりをして空しい気持ちになっていた。
当時子供を希望しているのに授からない状況にあったというYさんに、悪い言葉を吐いたのはわかった。その時もとても反省した。自分が子供で、お父さんお母さんがいる幸せな環境だったから自分以外のことが考えられなかったのだ。でも、あの時より、私は今の方が反省している。
現在、自分自身も子供が欲しいと思うようになり、結婚や出産について考え、悩む中で。医療系で働く者として。なんと傷つく言葉を投げてしまったのだろう。子供は残酷。あの時の私はまさにそれだった。
今、切に思う。あの時は本当にごめんなさい。