他人から見た私は、どうやら変わっているらしい。
初めてそう言われたのは、中学に入学してすぐだった。当時仲が良く、結局中学三年間を共に過ごした友達からだった。
その友達とは、中学1年生の頃はニ人でいることが多かったが、途中から、もうニ人が加わって、合計四人で行動するようになった。
中学、高校と気づくと「変わっているキャラ」ポジションにいた
そのグループの中でも、私は「変わっている」と言われていた。でも、変わっていると言っても、クラスから浮いているわけではなかった。
それに、そのグループ自体も、まあまあ明るいグループだったと思う。
私は本当の変わり者ではなく、あくまでも、「変わっているキャラ」としてのポジションにいるだけだと、当時から思っていた。
あくまでも、そういったポジションにいるだけだし、自分だけ特別な感じがするし、それに、「変わって」いたら、あまり気を遣わなくとも周囲に受け入れられることもわかり、私はそれに、たぶん、満足していた。それを自分の個性として捉えていたと思う。
高校では、中学からの知り合いはあまり多くなかったが、私はここでも、「変わっているキャラ」のポジションにいた。
自分からなろうとしたわけではない。本当に、気づいたらそうなっていた。
ここでもまた、中学と同じように、まあまあ明るいグループに属していた。
中学校から、「変わっているキャラ」のポジションにいることもあり、私はだんだんと、自分は特別なんだという思いが強くなっていた。
もちろん、これには年齢の問題もあると思う。でも、「変わっているキャラ」のポジションにより、それは強化されたとも思う。
文才があり小説家になれると思ってから現在24歳、なれていない
そしてそれよりも強かったのが、自分には何か特別な才能があるのではないかという気持ちだった。例えば、文才とか。
実際に、文章を褒められたことは数回あるけれど、私はその現実よりも、さらにハイレベルな文才が、自分にはあると思っていた。
大げさに言ってしまえば、私は黙っていても、何もしなくても、小説家になれると思っていた節があると思う。
はっきりと自覚したことはないけれど、自分がそう思っていることに、薄々とは気づいていた。
けれど、大学を卒業して、現在24歳。私は小説家にはなれていない。それに新人賞への応募だって、まともにしたことはない。
そうして、私は精神の成熟とともに気がついた。
私には、特別な才能がないということに。
だからと言って、得意なことがないわけではない。手先は器用だと思う。でもそれは、あくまで一般的なレベルで、何かにめちゃくちゃ秀でていて、それのプロだとかではない。
魚の缶詰の蓋を、汁を飛ばさずにきれいに開けられるのがせいぜいである。
自分への過度な期待が落ちて、凡人だと自覚してからが勝負
でも、私は、がっかりとはしていない。むしろ、いい気持ちだ。さっぱりと、清々しい気持ちだ。
自分への過度な期待が落ちて、肩が軽くなった気がする。その期待だって、私が勝手にしていたものなのだが、それはコントロールできなかったし、当時は気が付かなかったのだから、仕方がない。
こうして今思うことは、自分が凡人だと自覚してからが勝負、ということである。
勝負と書いたけれど、私には、特別な何かになりたいというような夢があるわけではない。小説家だって、なりたいわけではないし、なれる自信もない。
では、何に対する勝負なのか。それは私もはっきりとはわからないけれど、おそらく人生に対するものだと思う。人生をどう生きるか、という勝負のような気がする。
人生に対して、勝負、と思っている時点で、私もまだ若いなあ、と思うけれど、実際若いのだから、それでいいと思う。
年齢と共に変化する価値観を、今は楽しみたいと思う。
他人から見た私が、変わっているのか否かは、実際のところはわからないし、今はどちらでもいい。
けれど、自分が凡人であるという気持ちだけは、今日も明日も、明後日も、忘れずに、生きていきたいと思う。