ある日、いわゆる「自然消滅」という形で別れを告げた人(付き合っていたわけではなく、相手は女友達)に今一言だけ伝えられるならば、「ありがとう」でも「仲直りしよう」でもなく、「ごめんね」を伝えたい。「ごめん」という言葉は、ときに謝罪の言葉であり、ときに感謝の言葉として用いられると私は解釈している。
喧嘩するほど仲が良いという言葉もあるけど、お互い敵対視していた
幼い頃から幼馴染、という形での交友関係が続いていた私と彼女。彼女の名前は伏せ、Wさんとでもしよう。親同士の関係もあったので、ずっと一緒にいた記憶がある。
Wはよく言えば自我が強い、悪く言えば自己中心的な人間であった。と私は書くが、きっと相手もそう思ってる。似ているからこそ、二人が同じ位置に立っているからこそ、喧嘩は起こる。どちらかが一歩上手であったら、喧嘩なんて起こらない。なんてことを巷ではよく聞く。本当にその通りだと思う。彼女との経験が物語ってると心底思う。
一方で喧嘩するほど仲が良いと言う言葉もあるが、それには私たちは当てはまらなかった。ときにライバルという肩書きを忘れ、2人で無我夢中に遊ぶこともあったが、基本的には敵対視しながら過ごしていた。
勉強は彼女の方ができたが、運動は私の勝ち。ファッションセンスは負けたけど身長だってスタイルだっていつも憧れを抱かれるのは私の方だった。どんぐりの背比べとでもいうように、私たちはカテゴリを見つけては戦い、勝敗をつけていた(まあお互い心の中でだが)。
中学生になり新たな戦いカテゴリ発見。それは「恋愛」
そんな私たちは、中学生になったある日決着のつけ難いカテゴリを見つけたのだ。
それは『恋愛』だ。
幸い、2人の好きな男性のタイプは真逆だった。私は真面目で紳士的な人がタイプだが、彼女はチャラチャラしている人がタイプだ。それなのに私たちは戦おうとした。中でも彼女に言われたある言葉は、怒りを通り越してもはや笑った記憶がある。
「あんたの好きになる男、いつもクズだもん。タイプの時点で私が勝ってるよ。」
こんなことを今時TwitterなどのSNSで呟けば、人権の侵害?にでもなるのだろうか。中学生の私にはそんな考えは全くなかったが、とにかく面白かった。その時ばかりは私のタイプなんてほっといてくれよと私が一枚上手だったのか、もはや反論して喧嘩をふっかける気すらしなかった。
だから、私からしたら、このカテゴリの勝者は私だと思っていたが、彼女は私が逃げて負けを認めたとでも思ったいたらしい。だから私たちの中で唯一勝敗のついていないカテゴリは『恋愛』なのだ。そして、そこからお互い勝敗をつける喧嘩をすることはなくなり、距離は日に日に遠ざかっていった。
ハタチを超えた今また出会ったら、カテゴリはもっと増えているだろう
高校生になって進路が分かれたきり、SNSで一応お互いをフォローしているものの、一度も話していない。私は東京への上京を決め、彼女は仙台で暮らしているらしい。
ハタチを超えた私たちが今また出会ったら、カテゴリはたくさん増えているだろう。
お酒はどっちが強いのかな。運転免許を先に取ったのはどっちかな。ふと考えると、少しワクワクしてしまう。
そして、あのとき恋愛というカテゴリにおいて戦うことをやめたことを少し後悔する。あの時私が言い返していれば、今頃お酒の強さを争って居酒屋でアルコール飲み放題に酔い浸っていただろうか。急に寂しさと申し訳なさに駆られてしまった。
もしかしたら私たちこそが「喧嘩するほど仲が良い」だったのかもしれない。気づかなかったが。まあ、私がこれだけ謝りたいと心で思っているということは、彼女もそう思ってくれているのかな。
instagramの彼女のアカウントからダイレクトメッセージのボタンを少し強めに押した。