髪を短く、切らせて欲しい。

私が変えるなら、何となく存在する女性らしい髪型を変えたい。強く主張されるわけではないけれど、それでもふとした時に女性らしさを求められる髪型を変えたい。

私がショートヘアーにして帰宅すると、父は少し悲しそうな顔をする

私は髪が長いより、短い方が好きだ。それは、ヘアアレンジをする器用さがないことが大きい。さらに、短い方が楽だし、ワックスを少しつけるだけで融通が利く。ボブも可愛いけれどもっと短い方がいい。後ろをいっそ刈り上げてしまうぐらい、首元を完全にすっきりさせるのが理想だ。

だけど、いつだってそんな風に短く切ってはもらえない。曰く「女の子なのにそんなに切ると」「今はよくても絶対後悔するよ」……。

後ろの長さを鏡で確認されるたび「もう少し、もうちょっと切りたい」と言うと、大抵お決まりの文句で断られる。女性の後ろ髪をめいっぱい短くするのは酷く抵抗があるようで、誰もが「そんなに切れない」と言うのだ。

よく考えると、母の髪もずっと長い。これは父が「女性の髪は長いべきだ」と思っているからだと、幼い頃聞いたことがある。母は律儀なので、父に合わせているのだ。確かに私が精一杯のショートヘアにして帰宅すると、父は決まって少し悲しそうな顔をする。

髪型ぐらい自由にさせて欲しい。長くても短くても「髪は女の命」だ!

髪は女の命だと、昔からよく聞く。小説の中でも出てくることが多いが、それだってよく振り返れば髪が長い女性に対して語られることが多い。髪を長く保っていることが、“女性らしい”という概念が根底にあるような気がしてならない。

じゃあ、髪が短いことが、“男らしい”のかといわれると、最近はそうでもないような印象を感じる。野球部の誰もが坊主頭にしなければならないといった風潮が、批判されたように髪型は自由になっている気がする。

“ロン毛”という言葉が俗に髪が長い男性を指すように、男性なのに髪が長いと後ろ指さされることも減っているではないかと思う。

髪型ぐらい、自由にさせて欲しい。髪が短いからといって、髪の毛をぞんざいに扱っているわけではないし、蔑ろにしているわけでもない。短くたって、髪は女の命だ。いや、そもそもこの言葉自体が、女性らしさを増長しているのかもしれない。薄毛の描写に男性の方が多いのも、なんともおかしな話な気がする。

何の抵抗も気負いもなく、「好きな髪型」に出来るようになりたい

ただ私は、ファッションの一環として髪を切らせて欲しい。これは、何も短髪だけの話ではない。あらゆる髪型やヘアアレンジについてもいえることだと思う。

似合う似合わないがあって、切ることを躊躇されるのは仕方ないのかもしれないけれど、性別で分けられるのはよくないと思う。編み込みなどのアレンジだって、男女関係なしにファッションとして誰もがやればいいし、刈上げだってやりたければやればいいと思う。

何の抵抗も気負いもなく、好きな髪型に出来るように変えたい。「女性なのに」「女性だから」とかそういう殻を破って、好きな髪型を依頼できるようになればいい。

自信を持って「もっと切ってほしい」と言える日がくることを願って、私はまた美容院に行く。行きつけの美容院の顔見知りの美容師にちょっと渋い顔をされながらも、私はまだ口にすることをやめないのだ。

「もう少し短く切ってください!」