高慢にして不遜。
それが私の標準装備でございます。
気にくわないことがあると、人目もはばからず不機嫌になりますし、感情が昂ったときに涙が溢れてしまうのを、止めるつもりもありません。
たとえ自分を認めてくれない人がいても、我が身を哀れみ世界に対して卑屈になることなど、もっての外です。私を尊重しない人に敬意を払う必要がどこにありますか。
私は私が素敵だということを知っています。根拠はありません。

「あぁ今日の自分も美しいなぁ」としみじみ思うことが多々ありました

かつて仕事帰りに電車に乗っていた時、窓ガラス越しの宵闇に映る自分の顔を見て「あぁ今日の自分も美しいなぁ」としみじみ思うことが多々ありました。そんな時私の背筋はシャンと伸び、満員列車で押し潰されるなかでも、侵食されることのない砦のように高貴に映りました。
その呟きはたまに唇から漏れていることもあって、その度に隣にいる友人たちは「はいはい、そーだね」と慣れたように相槌を打ちました。同意を求めているわけではないので気にしません。
たまに厚かましい輩がすれ違いざまに「綺麗だね」などと声をかけてきたこともありますが、「知ってます」とだけ簡潔に答えていました。私が綺麗だということは、太陽が昇ることや季節が巡ることのように当たり前のことなので、それを今更言われても返答に困ってしまいます。

つかみ食べ真っ最中。カシミヤのニットを着ている暇なんてありません

そんな私にも娘が産まれました。それまで纏っていた高価なお洋服をクローゼットに封印し、幾星霜。歯が生え始めた娘は、つかみ食べの真っ最中。食事に飽くとお米粒でベタベタになった手で抱っこをせがんでくるので、カシミヤのニットを着ている暇なんてありません。
この間は何をとち狂ったのか、気がついたら私は、無印良品の割烹着を買おうとしていて、すんでのところで踏みとどまりました。割烹着なんて着始めたら、おばさんの入り口に立ってしまう気がします。でも、あのシンプルさが可愛いんだよなぁ。フェイラーの花柄スリッパを欲しくなる頃からおばさん化は始まると思うのですが、私がおばさんになるのも時間の問題です。
家事と育児に自分の仕事で夕方にもなれば疲労困憊、鏡に映る自分を見れば元気が復活するはずなのに、その暇もありません。可愛い娘は、私が目を離すや否や絵本や新聞を掴み取り、笑いながら食べようとします。こんな事態で外見などに構っていられません。でも今の私は娘の寝顔を眺めるだけで、この上ない充足感を味わえるのです。

自意識を持て余していた私は、自分の容姿を粗雑に扱うことにしました

子供を産む前の私は、姿見の前で何度も着替えてから外に出たものでした。
その日会う人によってメイクと髪型を決めて、予定に合わせた服装と靴と鞄を選び、でも気に入らなくて全部放り出し、泣きそうになりながらクローゼットを漁っていると、ゆうに一時間は過ぎ去りました。私は、私の美しさを外敵に侵食されないよう、一生懸命でした。
Tシャツとジーンズで気楽に笑える人たちが羨ましくて羨ましくて。溢れ出る自意識を持て余していた私は、遂に何もかもどうでもよくなり自分の容姿を粗雑に扱うことに決めました。

おしゃれに構わないと自己表明することは、人々に清々しい美しさを感じさせます。潮風で痛んだ箒の束のようなポニーテール、色褪せたくるぶしのミサンガ、日に焼けたそばかすの頬。
その潔い質感は、他者の視線に侵食されることなく内側から光り輝いて見えることでしょう。なぜなら、私は今とても満ち足りて自由な心地がしているからです。相変わらず根拠はありませんが、確信しています。

私の美しさは、外敵によって損なわれるものでもなければ、人を拒絶するためのものでもないことを私は知りました。
かつて私は世界と対峙するために鎧を着ていましたが、それが今は娘を受け入れ抱きしめるための愛に変わったのです。
高慢で不遜だった私はどこへ行ったのでしょう。
抗えず買ってしまった生成りの割烹着もきっと、私を引き立たせる素晴らしいアイテムとなることでしょう。