珍しい名字の旧姓は、私のアイデンティティになっていた

『お持ち物
①手付金 100万円
②印紙代 1万円
③運転免許証 夫様 あい様(「あい」は私の仮の名前)
④認印    夫様 あい様
⑤保険証   夫様 あい様
⑥実印    夫様 あい様
⑦源泉徴収票 夫様 あい様
⑧現在お住まいの賃貸借契約書
当日は4~5時間程、お時間を頂戴いたします。
どうぞ宜しくお願い致します。』

gmailに届いた「⑥実印」の文字で、揺れる心。
28歳の私は、31歳の夫とペアローンを組んで、この春マイホームを購入する。

私の旧姓は〇〇。全国で2000人くらいしかいないこの名字のおかげで、子どもの頃からあだ名は名字の一字をとって「〇ちゃん」だった。

そりゃそうだ。あい、は何人もいたけれど、〇が被ってる人には出会ったことがない。私をあい、と呼ぶのは祖母と、いつかの元カレ達くらいなもので、両親は私をお姉ちゃん、と呼ぶことが多いし、夫からも、恋人の頃から結婚した現在に至るまでずっと、〇ちゃん、と呼ばれている。

会社でも、同期入社が400名ほどいたが、〇〇という名字の人はいなかった。何なら現在3500人ほどの社員の中で、〇〇という名字は未だに私だけだ。

思い出の中の私は圧倒的に「あい」ではなく「〇ちゃん」で、そう考えると〇〇というのは、私のアイデンティティのような、もはや名字以上の存在と言えるのかもしれない。

大学を卒業し、就職の為実家を出る際に、私は母から「〇〇あい」と彫られた実印を贈られた。当時の母は想像もしなかったのだろう、私が26歳で結婚するなんて。4年後には〇〇でなくなるなんて。

旧姓で成し遂げたものは特にない。だから、ごく自然に夫の姓になった

選択的夫婦別姓制度、という言葉はなんとなく聞いたことはあったけれど、それ以前に、結婚したらどちらの名字を名乗るのか、私は夫と話し合ったこともなかった。

勿論、〇〇でなくなる寂しい気持ちはあったけれど、会社では旧姓のまま働くことができるし、私には名字が変わって困るような特許や論文はない。入籍までの26年間の人生で社会的に成し遂げた!と言えるものもない。

何もない、何者でもない私は、あたかもそれが当たり前かのように〇〇から夫の姓の●●になり、結局、〇〇あいとして母から貰った実印を使うことはなく、結婚と同時に〇〇ではなくなってしまったのだ。

ふんわりと、深く考えずに●●になった私は、「公的に貴方が貴方であるという証明を見せよ」と言われて初めて、自分は既に「〇ちゃん」ではなく、「●●あい」なのだという現実を理解したのだった。

旧姓併記の問い合わせ自体がマイナー。民間ならなおさら…

結局1度も使わなかった〇〇の実印。
ネットで何の気無しに調べてみると、なんと旧姓の実印を登録する方法があるというではないか。旧姓併記という手続きで、2019年から、戸籍に旧姓も記載することで、旧姓の実印の登録が出来るようになったらしい。

母から貰ったハンコを使えるかもしれない、という淡い期待があったが、念の為にかけた役所への確認の電話で、それは脆くも崩れ去ってしまった。

「あの、急ぎで実印が必要で、手元に旧姓の実印があるのでこれで登録をしたいのですが…」
『出来ません。』
「え?」
『もう入籍されて、名字は変更されてるんですよね?』
「え、ええ。でも、」
『出来ませんよ、新しい名字の印鑑でなきゃ。』
「でも、ネットで調べたら出来るようなことが書かれていて…」
『え?……少々お待ちください…………確認したところ、まずは請求手続きというものが必要で…』

私が電話をしたのは、役所だ。
電話口で対応してくださった方を責めたい訳ではない。この問い合わせ自体がマイナーなのだろう。でも、役所での対応がコレなら、民間ではどうなるのだろう。
夫と悩みに悩んで購入を決めたマイホーム。私が旧姓の実印を出すことで、ローンの審査が遅れたら、万が一通らなかったらどうしよう。不動産屋さんに変な夫婦だと思われたら、どうしよう。

結局、臆病な私はファーストペンギンにはなれなかった。

母からの実印は、いつか社会が変わったときのために

「旧姓に愛着がある」
そんな理由だけで旧姓併記の手続きが当たり前にできる、そんな未来が来るのかなぁ。

今はまだ、制度自体も始まったばかりで、一般的な手続きではないのだと思う。私自身も、実印が必要になるという「自分ごと」になって初めてこの制度を知ったのだ。

そもそも、この制度に行き着いた事の発端は、私が夫とペアローンを組んでマイホーム購入をすることだった。私の親世代では、妻も働き続ける事が前提のローンなんて、きっとマイナーだっただろう。でも私達夫婦にとってペアローンは、数あるローンの組み方の中の1つに過ぎなかった。

「当たり前じゃない」が「当たり前」になるには時間がかかる。けれど、少しずつでも社会は変わっていく。きっと。

〇〇の実印は「その時」が来るまで大切に取っておこうと思う。いつか月に別荘を構える時、空飛ぶ車に買い換える時、必要になるかもしれないし!