「賢くしたたかに」「女の子なんだから」という言葉ほど、日本における女性の立ち位置を私にはっきり自覚させる言葉はない。

行動を起こさなかったせいで、問題ないと思わせてしまったのでは

就活時、銀行・損保・商社業界を受けていた時期があった。面接で担当者は口を揃えて、エリア職ではなくなぜ総合職を志望するのか、と聞いてきた。
後日、父に「男子にはこんな質問はしないのに。募集しているから応募しているのだ。男女差別だ」と不満を漏らすと、「面談でもそういうのがにじみ出てるんじゃないのか。賢くやれ。社会に出てその性格だと苦労するぞ」と怒られた。そして、お前はしたたかに生き抜いて行けるとアドバイスを貰ったことも覚えている。

メディアでも年配の女性成功者のインタビューを聞くと、どんな状況でも「賢く」「したたかに」男社会の中で「耐えて」きた、というような話をしている。
確かに、彼女たちが生きてきた時代は今よりも男女平等の概念など皆無で、女性の身で出世するのは難しいことだったと容易に理解できる。男社会で生き抜くにはどんなことにも動じず、無駄な争いを起こさずに求められる役割を果たさなければならなかったと思うし、そんな先輩方の成功のお陰で女性の地位も少しずつ向上してきたとは理解している。

だが、賢く振る舞ってきた結果得たものは、一昔前と変わらず不平等な社会ではないのか。今まで「賢く」「したたかに」生きてきたせいで、日本女性は今日も男性と同等の地位を得られていない。さらに、長年行動を起こさなかったせいで、このままでなんら問題ないと社会に思わせてしまっているのではないか。
今の社会でも周りからの期待通り、男性から可愛がられるように振る舞った方が上手くいくとは理解している。でも、私は次の世代、いや自分の代からでもこの不条理をなくしたいし、そのためには賢く振る舞ってなんかいられないと思う。
周りになんと思われてもおかしいことはおかしいと言いたいし、嫌な事には嫌だと言いたい。賢く振る舞ってその場では問題なく過ごせても、嘘をついていることを自分にはごまかせないし、結局は同じことが何度も繰り返される。

兄の受験の時と同じように、「頑張ってね」と言って欲しかった

高校生のとき、第一志望校を東大に決めた。母にその決心を告げると、「女の子なんだから東大じゃなくてもいいじゃない、そんなに頑張らなくても早慶あたりでいいじゃない」という言葉が返ってきた。
私は東大には小学生の時から漠然とした憧れを抱いており、中学、高校の勉強で自信をつけてその思いは強くなっていた。それは母も知っていたはずだ。
そんな母の言葉に私はただただ悲しかった。ただ母には兄の受験の時と同じように、頑張ってね、と言って欲しかった。
東大を目指すのは簡単な道ではないとは分かっているし、受かるかもわからないことは分かっている。なのになぜはじめる前から女子には難しい、女子には大変なことはいらない、と言うのだろう。
私は、「女の子だから」という言葉は魔法の言葉だと思う。根拠はないのにこの言葉だけで、あることが自分のすべきことに思えたり、すべきことでないことに思えてしまう。

中学の教師は自然に、弁当は女性が作るべきだと伝えていた

思い返せば私は小さいころから、「男だから」「男は」「女だから」「女は」という概念を刷り込まれてきたと思う。
中学校の家庭科で保育の授業があった。近隣の幼稚園を訪問し園児の様子を観察する実習があり、当日の朝、教師はこう言った。
「今日は園児がどんな遊びをしているのか、友達とどう関わっているのかなどよく見てください。服装にも気づくことがあるかもしれません。お弁当もどんなものを持ってきているか見てみると良いですよ、特に女子はね」
恐らく、その教室にいた人は誰一人この言葉を10年近くたった今では覚えてはいないと思う。私を除いて。それくらい、教師は自然に弁当は女性が作るべきというメッセージを伝えていた。

正直、この社会を変えるために自分が何をすべきなのか、何ができるのか分からない。就活でも男性社会に染まった大人の考えは変えられなくて、自分と同じ方向を見ている会社に入社した。女友達と話していてもこの話題を出すこと、心の内を打ち明けることに躊躇する。
でも、今日から少しずつ自分の思いを伝えていきたい。母には挑戦することには女子も男子も関係ないこと、父には男社会で生き抜く賢さではなく自分が頑張れる社会を探したり作ったりする賢さを身につけること。まずは自分の周りの人に私は今のままで良いとは思わないと伝えたい。
10年、20年後に生まれてきた女性たちに、今まで何もしてこなかったと言われたくないから。