私の母は小柄で愛嬌があり、少し天然が入っているが、そこがまたかわいい。よくしゃべり、よく笑う。父は優しくてしっかり者で、父と母はとても仲良しだ。還暦を迎えた今でも、二人で同じ布団で眠る。

そんな両親から生まれた私は、どうしてこうなんだろう。母と買い物に行けば、「娘さんですか?そっくりですね!」と小さい頃から言われていた。

そっくりなのだ、見た目は。部活の試合を見に来た母を同級生に紹介する前に「あそこにいるの〇〇のお母さんじゃない?見たことないけどたぶんそう!」と言われるくらいには似ている。

見た目だけじゃなく、性格も「母のように」なりたかった

似ていないのは中身だけだ。母は人見知りせず、誰とでも話せる。私は無口で人と話すだけで緊張するし、疲れる。母は明るく、ポジティブで私はその逆だ。

高校生になり、似ていると言われることがさらに増えた。最初はそれが嫌ではなかったし、むしろ容姿を褒められる度に、「母のおかげです」なんて言っていた。でも、あるとき私は気づいた。母と似ているのは、見た目だけだということに。

みんな顔やスタイルや髪の毛のことしか言わない。「お母さんみたいによくしゃべるね」なんて言われたことはなかった。私は母のようになりたかった。見た目はもちろん、中身まで。誰とでも緊張せず話せるようになりたいし、誰からも愛されるような存在になりたかった。

中身も寄せていこうと奮闘していた時期もあったが、結局諦めた。中身を変えることは、見た目を変えること以上に難しいことに思えた。お金さえ積めば、好きなだけ整形して美人になれる。鼻を高くしたり、顔を小さくしたり。そこに私自身の努力などいらない。

でも中身は、どれだけお金を積んでもどうすることもできない。そもそも、他人に私の中身を変える力などないのだから。

「容姿がそっくり」と言われるたび、私の中身を否定された気分に…

中身まで似ることが正解というわけではないのは理解していたが、当時の私は「容姿がそっくり」と言われるたびに「中身は似てないね」と自分の中身を否定された気分になっていた。

もちろん今はそんな風には考えないが、高校生のときの私はとてもナイーブで、コンプレックスに感じていた。きっと母は、自分の子がこんな卑屈な考えを持っているなんて知らなかっただろうな。

親の育て方のせいにする気はないし、これは私の人生なのだから自分の責任でこうなったと思っている。母は憧れの存在だし、大好きなのだが、私は母のようになんてなれない。なりたくてもなれなかった。

私は私。大学に進学し、様々な価値観を持つ人たちと出会い、そう考えるようになってから心が軽くなった。男だとか女だとか、かわいい、かっこいい、両親がどうであるとかにかかわらず、自分を見てくれる人たちに出会って、高校生の時に感じていた劣等感がすっと消えていった。狭い世界で生きていたんだなと実感した。

私は性格は変えられないけれど、「考え方」なら変えられると思う

社会人になった今でも私は、見た目を変える方がお金はかかるけれども、確実に変われると思っている。中身を変えるなんて、相当強靭な精神力がある人でないと無理だ。私にそんなものはない。

でも、性格は変えられないけれど、考え方なら変えられると思う。劣等感を感じていたあの時と今の私は、対外的な性格は全く変わっていない。初対面の人との対話が弾むことはないし、また会いたいと思ってもらえるような人間でないことは自分が一番わかっている。それでも自分に対して、自分がこうあるべきだと思う性格が変わった。それだけで生きるのが楽になった。

今の私は、見た目は相変わらず母に似ているが、中身はさらにかけ離れたと思う。似せる努力をしないでいいと気づいたし、ありのままの私を見てくれる人たちがいるからだ。いつか私が結婚して子どもができたら、子どもに憧れられるような母になりたいと思う。でも、子どもには「あなたらしく生きてほしい」と必ず伝えるようにしたい。