お父さん、あなたは今どこで何をしていますか。

私の両親は私が6歳の頃に離婚した。
元より裕福な家ではなかった。母親、父親、兄がいて、ごく普通の家庭だったと思う。誕生日には毎年母が豪勢な料理とプレゼントをくれたし、洋服だって買ってもらっていたし、ゲーム機やリカちゃん、そういったものももちろん持っていた。

でも、父親は毎日いなかった。
月曜日から日曜日まで父親が家にいたことはなかった。でも、毎晩私や兄が寝た後に居たであろう形跡はあったのだ。

洗っていない食器、仕事の作業着の洗濯物、たまに聞こえる両親の会話。
幼い私はそれが家族の当たり前だと思っていた。
友達もみんなお父さんには会えないものだと。

目が覚めると見知らぬ男の人がいた。私の父親の唯一の記憶だった

「昨日パパとママとおでかけしたの!」
保育園の頃、友達のりなちゃんに言われ衝撃を受けたのを覚えている。パパっておでかけするんだ。パパって遊んでくれるんだ。

それまで意識していなかった友達の会話の中に出てくる“お父さん”“パパ”、そんなワードが耳に残る様になった。

ある朝、目が覚めると見知らぬ男の人がいた。
寝起きで働かない頭で一瞬わからなかったが、それはいつ振りに見るだろう、父親であった。

当時4歳か5歳くらいの子供と父親とは思えない距離感だった。特に会話もせず、隣に座るわけでもなくただ私は立っていた。

父親はその気まずい空気に耐えられなかったのか、ある提案を持ちかけてきた。
「食べるか」
そう言って父親は自分が食べていた白いごはんにごはんですよを乗せたものを差し出してきたのだ。
気まずい空気は何も変わることはなかったが、はじめて食べたごはんですよの味はとてもおいしかったのをよく覚えている。

だが、私の父親の記憶はこれしかない。

父と母が離婚。父からの養育費は途絶え、我が家はとても貧乏になった

6歳になったころ、兄と私は母親に突然聞かれた。
「パパとママは離れて暮らすことになったけど、二人はどっちと一緒にいたい?」
こんな質問、なんで聞くんだろうと思った。私はごく普通の6歳だ。特に頭が優れていたわけでもないのに「こんなのわかりきったことなんで聞くんだろう」と、冷静に思った。今思えば、なぜこの時の私は大人のような感情を抱いたのであろう。

兄も、もちろん母を選んだ。
だって、我が家に父親は存在しなかったのだ。思い出の全てにいた家族は大好きな母と大好きな兄、その二人だった。
我が家はずっと、三人家族だったのだ。

少し大きくなった頃、母親が風呂場で話をしているのを見かけた。元から口調のきついところがあった母だが、この日は誰かに電話越しで怒っていた。

すぐに相手が父親だとわかった。お金の話をしていたからだ。母の声は怒っている声からやがて悲しそうな声になり、泣いている声に変わった。
この日がとてもつらかった。私は母のために何もできないただの子供で、やるせない気持ちになった。

後になって聞いた話だが、この時を境に父親は養育費を払わずに蒸発した。

母が朝から夜まで、私と兄の為に働き出した。私はとても寂しかった。そして、父親を恨んだ。アイツがいればお母さんはずっと家に居てくれるのに。

母もとても疲れていて、私は家事を手伝う事が多くなった。学校から帰れば家事をすることが義務のようになった。友達がうらやましかった。小学生の頃、いい子でいなければいけないのと、子供特有の遊びたい欲、甘えたい欲、がごっちゃになっていた。
今思えばこの時期が一番つらかったかもしれない。

当時母の稼ぎは少なく、父親からの養育費は途絶え、我が家はとても貧乏になった。兄はきつくなった靴を履き続けて足の親指の爪が壊死したし、夜ご飯は毎日雑草を食べていた。

そんな我が家は数年後、貧乏生活から解放される。母方のおばあちゃんが病気で亡くなって遺産が入った。兄が高校を卒業して就職した。私が高校に進学せずフリーターになった。
こうして、我が家は持ち直し、今でも平和に暮らしている。

あなたはどんな暮らしをしていますか。あなたは今幸せですか

さて、こんな私が父親に伝えたい事。

今あなたはどこで何をしていますか。どこに住んでいますか、再婚はしましたか、私たちのことを覚えていますか。生きていますか。幸せですか。

母親も兄も私も、あなたのことをずっと憎んでいました。今でも許せてはいません。
なのに、どうしてか最近、父親という存在がこの世に存在するのか気になります。
これはきっと私が大人になったから、私が今幸せだから。あなたのことを考える余裕が出来たんだと思います。

逢いたいとは全く思いません、でも、あなたがその後何をしてどんな暮らしをして今どうしているか、それがただ気になります。

一生伝えることはできないと思うので、この場を借りて伝えさせてください。

お父さん、あなたは今幸せですか。