お父さんがどんどん変わっていくこと、悲しかったよ。
トラック運転手だった父は水曜日が休み。放課後、足早に帰ってランドセルを置くと、テレビを見ている父に駆け寄り、大きな背中を滑り台にみたてて何度も滑って遊んでいた。
4兄弟の末っ子の私は、兄弟で一番甘やかされて育った。
「お前はうちの姫だからな!」と笑う父。見事にわがままに育ったが、私を一番甘やかしていたのは間違いなく父だ。
父方の祖父母とも同居をしていて、幼い頃の記憶は、大家族で笑いが溢れた楽しい家庭。仕事が忙しい父も、休みの日には私の話をうんと聞いてくれる優しい人だった。
中学校に上がる頃、祖母が病気になった。不死身なんじゃないかと思うほど元気だった祖母はみるみるうちに弱っていった。退院してからは父と母が交代で介護をはじめた。部活に忙しかった私は、家で何が起こっているのかわからなかったが、少しずつ家の空気が重くなり、居心地が悪くなるのを感じていた。
この頃から、父がおかしくなっていった。
優しい父と人生初の大喧嘩、浴びせられる罵声。その日、私はもう二度と家に帰らないと決めた
長い介護生活が終わり、祖母が亡くなってからは家族6人の暮らしが始まった。上の二人は社会人に、私とすぐ上の兄は高校生、大学生になっていた。大人になるにつれ、それぞれ家の外で過ごす時間が長くなり、6人顔を合わせることはほとんどなくなった。
父は、母にだけあたりが強く、話しかけても返事もしない状態だった。そんな二人を見ていたら、いつしか私も父へ話しかけることができなくなった。外ではにこやかで明るい父が家の中で見せる顔があまりにもかけ離れすぎていて、ひとりの人間として怖くなってしまった。
私が大学生になる頃、お金がなかったので奨学金を借りることになった。以前から母に「学費は自分で借りて払いなさいね。」と言われていたので、まあそんなもんだろうと思っていた。机の上に書類と置き手紙をおいて父のサインをもらった。
その頃には上の二人は家をでていたのだが、姉がいなくなった分、私が母から愚痴を聞くことが多くなった。話しかけても返事がない、何をお願いをしても聞いてくれない、ほとんどそういった内容だったが、この頃には生活費も削られ、罵声を浴びせられることもあったようだ。そんな愚痴のなかで母は隠していたことを教えてくれた。
「今まで黙っていたけど、実は上の二人の学費はお父さんが払ってるのよ。でも生活費も削られてあんたの学費は一円も払ってくれなかった、本当にごめんね」
正直、生活が厳しいのなら学費を払ってくれないことは仕方ないと思っていた。しかし父に隠し事をされ、さも当たり前かのように振る舞われていたことがショックだった。
そんな出来事もあり父を大嫌いになった私は、大学生の時はほとんど家に帰らなくなった。社会人になるとき、一度だけ父に呼び出されて話をした。もう家に帰ってくるつもりもなかったので、今まで怖くて話しかけられなかったこと、母にあたりが強いのが嫌なこと、学費のこと、抱え込んでいたものを泣きながら訴えた。
22年生きてきて、初めてした父との喧嘩だった。
少しくらい私の言い分を聞いてくれるんじゃないかと淡い期待を抱いていたが、返ってきたのは私のすべてを否定するような言葉だった。何もかもお前が悪い、お前の我慢が足りない、文句があるなら出ていけ、そんなような言葉の繰り返しだったと思う。
母から聞いていた話の通りだった、父の耳にはもう私たちの声は届いていないのだ。悲しさと悔しさでぼろぼろになった私は、過呼吸になりながら家を出た。それから父には一度も会っていない。
違う、お金じゃない。どうしてお父さんは変わってしまったの?
父と絶縁してから2年後、ひとり暮らしの家にハガキが届いた。
奨学金の完済通知。あと20年は残っていた奨学金が完済したことになっていた。
もちろん身に覚えはない。母にも、姉にも聞いたが知らないというから、きっと父なのだろう。
お父さん、どんどん変わっていくのが悲しかったよ。
私の話を聞いてくれるお父さんが好きだった。私が怒っていたのは、悲しかったのは、お金のことじゃなくて、あなたが変わってしまったことだったんだよ。