昔より小さくなったお菓子。破れた豆腐のフィルム。パックの底で腐っていたいちご。メニューの写真と違うパスタ。すぐにとれる口紅。割れたスマホの画面。晴れた日の雨。沁みてくるレインブーツ。私には着れないSサイズのワンピース

あの日のあの人の言葉。あの子の嘘。

世界は裏切りだらけ。心にしまった裏切りの記憶は、いつも簡単によみがえる。

入社式で初めて会った時に恋をした彼は、左手の薬指に指輪をしていた

好きな人が既婚者だった。意外と普通の話かもしれない。入社式で初めて会った時から、優しくてかっこよくて、面白くて。出会った瞬間に真っ先に左手の薬指を確認してしまったのは、彼が初めてだった。薬指に光る指輪は、今まで見たどんなジュエリーより輝いて見えた。

入社して4年間、優秀な先輩についていこうと必死に仕事をした。先輩とは仕事の帰りに何度も食事をして、2人で出張にも行った。先輩のお家で、奥様の手料理を頂いた事もあった。周りに変な噂をされるほど私とは仲が良かったけど、お互い一線を越えることはもちろん1度もなかった。先輩は既婚者だし、私はただの部下だから。

でも、一緒にいればいるほど気持ちはどんどん溢れてきた。溢れた気持ちは、心に押し戻した。伝えようとは、決して思わなかった。浮気も不倫も最低だし、そんな先輩なんて見たくない。そして、自分自身ももちろんそんな事あり得ない。仕事も大切。何より、今が充分幸せだから。

仲の良い同期の女の子だけが、私の気持ちを知っていた。いつも励ましてくれて、いつも正しい事を言ってくれた。初めて先輩への気持ちを打ち明けた時、彼女は真剣な瞳で「既婚者だけは絶対にダメ。お互い傷つくだけだよ」と言ってくれた。 優しくて、かわいくて、スタイルが良い、私の自慢の同期。彼女はいつも私の事を真剣に思ってくれる最高の友達だった。

特別な事はなかったけれど、食事に行き、夢を語り合う先輩との仲

「俺は奥さんが1番大切だから」「お前は最高の相棒だ」先輩は酔っぱらうと、いつも同じ事を言った。大好きな奥様に対する気持ちと、部下の私に対する褒め言葉だった。先輩は酔うと、いつもより沢山しゃべった。甘いものが大好きで、雨が嫌いで、ぽっちゃりした女の子が好きだった。

暇さえあれば昼や夜に食事に行き、夢を語り合い、会社でも顔を合わせた。何か特別な事は決してなかったけれど、私はこの関係性が好きだった。奥様の事も、部下の私の事も大切にする先輩が好きだった。

ある頃突然、先輩から飲みに誘われなくなり、急に冷たくなった。出世して業務が忙しくなったからだ。

私が元気のない様子を見て、同期の彼女がいつものように励ましてくれた。とても心強い、いつもの優しい彼女だった。

先輩の事をずっと近くで見てきたから、彼の「変化」に気づいていた

それから2ヶ月ほど経ったある日、会社から出ると雨が降っていた。雨が降っているだけでまた、先輩の事を考えてしまう。「先輩、傘持ってるかな」そんな事を考えながら帰路につく。こんな日はタクシーで帰ろうかと思ったけれど、先輩の事を考えながら歩きたい気分だった。

傘に当たる雨の音が、私の心に沁み込んでくる。先輩の雰囲気が前とは少し変わった気がする。表情や言葉遣い。ネクタイの色や、香水も変わった。ここ最近の私はダメだ。色んなことを想像してしまう。先輩のことを考えすぎてしまって、根拠のない想像が変に真実味を持ちたがっている。

今までずっと近くで見てきたからこそ、色んな事が分かる。きっとね。きっとそう。全て分かっている気がする。でも、気づきたくない。違うって、気づいてないってそう私が叫んでる。

ふと少し前を見ると、先輩の車が停まっていた。新しく出来たバーの前だ。私とは行ったことのないバーの前に、先輩の車が停まっていた。薄暗い車内に目を凝らすと、先輩は助手席の誰かとキスをしていた。目を凝らして見ると、私が何度も座った助手席には彼女が座っていた。私の同期の、優しくてかわいくてスタイルの良いあの子とキスをしていた。

ばかだなぁ。こんなところでキスしなくてもな。はっとした心臓とは裏腹に、気持ちはあまりにも冷静だった。先輩の事を初めて「かっこいい」と言ったのは彼女だった。先輩はいつも「浮気をする奴は最低だ」と言っていた。

ばかだなぁ。気づかないふりしてあげようと思ったのに。

泣いたりなんかしなかった。ただただばかだと思った。ばかだなぁ。あいつら。ばかだなぁ。私。

靴から沁みてきた雨が指先を冷たくした。あの時の裏切りと嘘は傷にはならず、ただ“裏切り”の記憶として心に残った。